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手賀沼と開墾

東京に最も近い湖沼

「東京よりわずか一〇里にして、山中的の仙境あるかと驚喜いたし候。手賀沼は印旛沼よりも風致大に優り申し候」明治大正期に、多くの旅行記を描いた文人大町桂月の言葉です。桂月の娘さんが手賀沼沿いの鷲野谷に嫁いでいたため、我孫子から船で手賀沼を渡った時の感想でしょう。

実際には日本橋から7・8里で、足の強い人なら水戸街道を歩いて半日余で呼塚・手賀沼に到達します。江戸時代には、手賀沼周辺からウナギや雑魚・鴨や鶏卵・野菜などが江戸に運ばれ、江戸人の台所を潤してきました。また木下から出た「木下茶船」は八人乗りで、香取・鹿島の三社参りや潮来・銚子までの行楽として江戸人に人気がありました。手賀沼周辺は、成田山と共に最もポピュラーな観光スポットだったのです。また利根川沿いの木下・布佐は銚子九十九里からの魚を運ぶ、鮮魚(なま)街道の荷揚場でもありました。

手賀沼の開墾

鮮魚(なま)街道の要所であり、手軽な観光地として知られた手賀沼は、江戸の商人たちの新田開発の意欲も誘ったようです。江戸初期の寛文一一年(一六七一)、江戸小田原町の海鮮問屋海野屋作兵衛ら十七人の商人による開墾も偶然ではなかったのでしょう。

これ以前には、手賀沼は布佐地先の字川口で、自然の水路で香取の海と結んでいました。高瀬舟も手賀沼に入り込み、平塚河岸や沼最奥端の戸張河岸で陸揚げし、江戸川水系まで、馬の背で運びました。しかし沼と利根川の水位の差はほとんどなく、利根川の水位の上昇はすぐに沼に逆流して洪水となります。このため寛文期には堤を築いて利根川と沼を遮断し、図のような圦樋という逆流止め水門で繋ぎました。高瀬舟は入れなくなりましたが、圦樋は普段は扉が開いており、ウナギやボラなどは1メートルほどの落差をものともせずジャンプして沼に入り込みます。生態系はこの圦樋によって保たれていたわけです。戦後の昭和三十年代まで、手賀沼のウナギが「青」と呼ばれ江戸・東京で珍重されたのはこのためです。江戸時代の中頃には盛んだった鴨猟も、江戸人の贅沢な贈答品として珍重されたようです。

手賀沼のアキレス腱はしかしこの圦樋にありました。利根川の水位が頻繁に上がるようになると、圦樋は何日も閉ざされ、沼は内水氾濫に襲われます。時にはこの圦樋が破壊されたり、堤が切れて沼沿岸は大洪水に見舞われました。排水の可否が手賀沼開墾の死命を決めたのです。

開発は思うように進まず、当初の17人の仲間は、海野屋作兵衛を除いて全員が手賀沼から撤退するという難しい開墾となりました。新田請方は次々と変わって、新しい江戸の商人たちが新田地を購入し、発作に居住して開墾に加わります。

手賀沼絵図の写真
手賀沼絵図(柏市教育委員会)

享保の新田開発

享保一二年(一七二七)に始る手賀沼の新田開発は、八代将軍吉宗が呼んだ紀州流の土木巧者井沢弥惣兵衛の設計によって、沼中に千間堤を築いての開墾といわれてきました。しかしこれには疑問が残ります。井沢が手賀沼開墾に加わったという史料は、いずれも半世紀以上も後世のもので、同時代史料にはその形跡はありません。井沢弥惣兵衛は元文三年(一七三八)に死去しますが、二代目の井沢弥惣兵衛(楠之丞)が翌四年から手賀沼新田方として任命されています。父の名を襲名し、事実手賀沼に関わったため混同した可能性があります。

千間堤は、確かに沼中央(布瀬下と中里の間)に築かれたのは事実です。しかしこの千間堤は全く役に立たないまま、数年後享保一九年には洪水で切れ、以後一度も修理される事もありませんでした。

手賀沼の洪水は、利根川からの逆流です。堤が切れなくとも、圦樋をしめれば内水氾濫が頻発します。沼中央の堤は上流からも、下流からも水が押し寄せ、総越の状態が続き決壊します。誰の設計か解りませんが、手賀沼の事情を知らない人の設計としか言いようがありません。

千間堤が竣工して翌年、享保十五年に検地が行われていますが、これは「検地帳」の表紙に記載されているように、「手賀沼古新田」1500石余の検地です。つまり六十年以前の海野屋作兵衛などの開墾の成果だったのです。千間堤が出来た翌年に検地が出来るはずもありません。吉宗と井沢・高田という紀州トリオによる享保開発は、ほとんどが後に創られた伝説です。残念ながら「千間堤」は、文字どおり「無用の長物」だったというべきでしょう

明治維新以降の手賀沼

薩摩・長州政権(新政府)は、戊辰戦争の戦費を賄った三井などの政商に小金牧の払い下げと手賀沼の開墾も許します。開墾会社が手賀沼は辞退すると、入札に付そうとするなどの動きもありました。この様な動きに地元民と印旛県は、手賀沼の入札をやっとの想いで中止させます。明治十六年には剣豪山岡鉄舟などが仏教の教田として開墾を申し出るなど、手賀沼は争奪のるつぼの様相を示します。しかし排水の困難さは変わらずいずれも成功していません。圦樋で排水する状況下では限界があったと思われます。利根川との間の堤を堅固にし、機械排水する以外に手賀沼の干拓は無理なことが解ってきたのです。

大正期に手賀沼の一部を堤で囲い、機械排水する相島新田の井上二郎の指導による開墾は一定の成果を上げました。

第二次世界大戦後ふたたび、食糧難と復員者の「食と職」を賄うため、手賀沼の干拓が国の方針となります。印旛沼と共同で東京湾に排水する案が追求されますが、費用の点などで難航し、昭和二十八年やっと手賀沼単独で利根川に機械排水する事が決まります。こうして手賀沼の約半分五百五十ヘクタール余が干拓されたのは、昭和四〇年代に入ってからでした。手賀沼は往時の約半分になりました。折りしも減反政策で、沼周辺の谷津田が埋められ、沼の汚染が問題になり始めます。沼の洪水は克服されましたが、あらたな課題が生まれます。汚染度ワースト一を長く続けた手賀沼も、現在は北千葉導水道によって利根川の水が導水され、少しきれいになってきました。においはなくなり、2006年にはトライアスロンの会場になるなど、沼に人々が戻りはじめています。

(中村 勝 『歴史ガイドかしわ』 2007年)

手賀沼の歴史や魅力を映像で!

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