更新日令和3(2021)年2月26日

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古代の製鉄工場

人類最初の鉄器は、今から5000年前の西アジアで宇宙から降ってきたニッケル分の多い隕鉄(いんてつ)を加工したものが起源とされていますが、これらは硬度が足りなく実用利器としてはほど遠いものでした。一般に鉄は3200年前頃、今のイランを中心に普及してゆき、中国には春秋から戦国期にかけて鉄器文化が本格化します。そして日本列島においては、縄文時代末から弥生時代のはじめころ、朝鮮半島から九州地方にもたらされます。弥生時代中期には、鉄素材を輸入に頼りながらも国内で鉄器の加工生産がはじまり、やがて、弥生時代後期になると、小規模ながら製鉄が開始されます。鉄生産が本格的に行われるようになるのは古墳時代後期に中国山地が中心と考えられます。

柏市内の製鉄遺跡は、県の製鉄遺跡分布地図によると63か所ありますが、利根川流域と手賀沼南岸地域に分布します。なかでも、旧沼南地域は53か所と県内トップの千葉市の59か所に次ぐ密集地帯となっています。

このように市内には、製鉄遺跡が多く分布していますが、調査歴もあり年代や構造が明確なものは、花前2)遺跡(船戸)、宮後原製鉄遺跡(大島田)、若林1)遺跡(藤ヶ谷)、松原製鉄遺跡(若白毛)、天神向原遺跡(大井)、大井東山遺跡(大井)、桝方遺跡(岩井)の僅か7か所を数えるだけです。時期は、花前2)遺跡が平安時代、他は奈良時代と考えられています。

製鉄遺跡は、その工程に応じ製錬と鍛冶(かじ)に分けられます。製錬は、まず原料の砂鉄や鉄鉱石を木炭と一緒に溶解させ、不純物を取り除く工程で、これには製錬炉が用いられます。製錬炉はその形態から、ユニットバスのような長方形箱型炉と円筒状の半地下式の竪型炉に分けられ、どちらも、台地斜面に構築されているのが特徴です。若林1)遺跡、松原製鉄遺跡は、箱型タイプで、宮後原遺跡、花前2)遺跡は竪型タイプです。従来の研究により、箱型は、西日本を中心に分布しており、竪型より早い時期登場するとされていますが、千葉県においては、両者が混在して発展していったものと考えられます。

製錬炉は木炭と砂鉄を交互に投入し、溶解させ、不純物を排除するために、炉内温度は1300度以上を常時保たねばなりません。それには、燃料となる木炭と高温度を保つための鞴(ふいご)と呼ばれる送風装置が必要となります。製鉄の原料については、一部には鉄鉱石を使用している地域もありますが、東日本では、砂鉄が主流となっています。

製鉄には多量の木炭を必要とし、炉の周辺には炭焼窯が必ず数基存在します。また、古代製鉄における送風装置となる鞴は「踏み鞴」で、長方形の穴を掘って、中心に軸となる丸太を置き、そこに踏み板を被せて、シーソーのように人が交互に踏むことによって起こした風を、送風管を通じ羽口から炉内に送り込みます。操業中は昼夜を問わず踏み続けなければならず、大変な労力を必要とします。大島田の宮後原製鉄遺跡では、この踏み鞴が比較的良好に保存されていました。

鉄器の普及により、耕地面積は飛躍的に拡大し、武器は殺傷能力が高まります。製鉄は、当時のハイテク技術であり、国家の命を受けた製鉄集団が、古代の柏に多数いたことを物語っています。

(柏市教育委員会 『歴史ガイドかしわ』 2007年)

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