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第7回 豊四季と十余二

十余二皇大神社
地名の由来を刻む開墾碑(十余二皇大神社)

豊四季と十余二

柏市とその周辺の地図を見てみると、数字にちなんだ地名が目に付きます。1番目の初富(現・鎌ケ谷市)から13番目の十余三(現・成田市)まで13カ所あり、このうち4番目の豊四季と12番目の十余二は柏市に位置し、市内でも特に変貌の著しい地域となっています。今回は、柏市発展の原点ともいうべき豊四季と十余二の成り立ちについて紹介します。

江戸時代、この辺りは小金牧と呼ばれる徳川幕府直轄の牧(牧場)でした。地元の有力者を「牧士(もくし)」という管理者に任命し、近隣の村々を「野付村(のつけむら)」という、牧場を管理する村に指定し、住民に賦課された労働負担によって維持管理をしていました。享保の改革期には、牧の周辺で原地開墾を試みますが、進入する野馬(のま)の被害や水利の難点により、計画通りにはいかなかったようです。

明治維新後、新政府は東京の旧幕臣などの窮民授産を目的として、本格的に小金牧の開墾に乗り出します。明治2年、三井八郎右衛門らが開墾会社を設立し、市岡晋一郎が現場で指揮をしました。そして、開墾と約六千人の窮民の世話をしたのです。開墾の順番に、初富(はつとみ)、二和(ふたわ)、三咲(みさき)、豊四季(とよしき)、五香(ごこう)、六実(むつみ)、七栄(ななえ)、八街(やちまた)、九美上(くみあげ)、十倉(とくら)、十余一(とよいち)、十余二(とよふた)、十余三(とよみ)という新しい村が出来ました。しかし牧跡の原野は予想以上に厳しく、農業に不慣れな東京窮民では開墾は難行を極め、早くも明治5年には開墾会社は解散しました。開墾会社と農民との間に、土地をめぐる深刻な裁判闘争が起こったのはこの時です。

市岡晋一郎(JPG:9KB)
三井組の代人として開墾を指揮した市岡晋一郎

十余二厳島神社開墾碑の写真(JPG:23KB)
十余二厳島神社開墾碑

その後、豊四季地区には柏の街おこし計画の中核施設として、東洋一と称された「柏競馬場」が造られ、その跡地は「豊四季団地(現・豊四季台団地)」となっています。十余二地区には戦時中、柏飛行場が建設され、帝都・東京を守る東の拠点となりました。現在は、つくばエクスプレスの開通もあり、柏の葉スマートシティとして注目を浴びています。

教育航空隊(JPG:75KB)
航空教育隊(97式戦闘機を前に・昭和18年)

柏飛行場東部105部隊
柏飛行場東部105部隊の正門(昭和17、18年)

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