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更新日2021年2月26日
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テーブルと椅子での食事も庶民のあこがれでした(豊四季台団地・昭和39年)
市制施行によって柏市が誕生した直後から、市内には日本住宅公団(現都市再生機構)の団地が次々と建設されました。市域の変貌を加速させる要因となった団地の入居開始当時の様子を見ながら、柏の記憶をたどってみましょう。
今から50年前、2DKの公団住宅に暮らすことは、庶民の憧れでした。鉄筋コンクリートの建物にテーブルと椅子での食事、台所には流し台が備えられ、各戸に水洗トイレや内風呂の設備。こうした衛生的で安全な団地の生活は、それまでの都内アパートにくらべあらゆる面で快適だったのです。当然、公団住宅の人気は高く、抽選による厳しい倍率を勝ち抜いた高給のエリートサラリーマンでなければ、入居は難しかったといわれています。
戦後10年、敗戦から奇跡的な復興を遂げつつあった日本ですが、高度成長期を迎えると大都市に人口が集中し、深刻な住宅難に見舞われます。この切り札として考えられたのが、住宅公団による集合住宅の建設だったのです。昭和31年11月入居の荒工山(あらくやま)団地は、東京近郊で最も早い賃貸の団地の一つで、ベッドタウン柏市の幕開けを告げるものでした。
荒工山団地(昭和39年ごろ)
続いて翌32年3月には光ヶ丘団地が入居を開始。二階建てのテラスハウスを含む合計974戸の団地が、何もない山林の中に出現します。マーケット・店舗・集会所・診療所・郵便局などが同時に建設された光ヶ丘団地は、団地の新しいコミュニティづくりのモデルとなりました。
林の中に出現した光ヶ丘団地(昭和32年)
光ヶ丘団地(昭和32年)
秩父・高松両宮妃殿下 光ヶ丘団地を視察(昭和32年)
光ヶ丘団地(昭和39年ごろ)
光ヶ丘団地のテラス棟(年不詳)
柏市誕生の10年後、昭和39年には市内最大規模の豊四季台団地が建設されます。入居戸数は4、666戸を数え、首都圏でも屈指のマンモス団地でした。この場所は昭和初期、東洋一の規模を誇るといわれた柏競馬場があったところで、広大な土地がほとんど空き地状態で残されていたのです。この年、柏市の人口は10万人を突破、昭和30年が約45、000人ですから10年間で2倍以上に増えたことになります。今日に至る「中核都市・柏」へのレールがひかれていった時期でした。
豊四季台団地(年不詳)
豊四季台団地(年不詳)
豊四季台団地の郵便集配所(年不詳)
(参考)小林康達「住宅都市柏の発展」『柏市史研究第2号』
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