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更新日令和3(2021)年2月26日
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続・柏に輝いた人たち(web拡大版)
このコーナーでは、さまざまな分野で活躍した「ふるさと柏」ゆかりの歴史上の人物を紹介します。「柏に輝いた人たち」の続編です。
(広報かしわ平成30年4月15日号から平成31年3月15日号にかけて連載された記事を、Web用に内容拡充したものです)
- 第1回 ~和平の道を求め、柏に隠棲した政治家~
牧野 伸顕 (前篇)(まきの のぶあき) 広報かしわ:平成30年4月15日号(1551号)(外部サイトへリンク)
牧野 伸顕 (後編)(まきの のぶあき) 広報かしわ:平成30年5月15日号(1553号)(外部サイトへリンク) - 第2回 ~日本ベニヤ合板のパイオニア~
木方 敬一(きほう けいいち) 広報かしわ:平成30年6月15日号(1555号)(外部サイトへリンク) - 第3回 ~飢饉に苦しむ農民たちのために立ち上がった義僧~
了慧和尚(りょうえ) 広報かしわ:平成30年7月15日号(1557号)(外部サイトへリンク) - 第4回 ~手賀沼を歩いて渡る、悲願を実現させた男~
中臺 正夫(なかだい まさお) 広報かしわ:平成30年8月15日号(1559号)(外部サイトへリンク) - 第5回 ~劇場経営の黎明期に活躍した実業家~
鈴木 吉兵衛(すずき きちべえ) 広報かしわ:平成30年9月15日号(1561号)(外部サイトへリンク) - 第6回 ~布施から誕生した千葉県女性運動のリーダー~
成島 憲子(なるしま のりこ) 広報かしわ:平成30年10月15日号(1563号)(外部サイトへリンク) - 第7回 ~増尾に住んだ奔放で波乱に満ちた女流歌人~
江口 章子(えぐち あやこ) 広報かしわ:平成30年11月15日号(1565号)(外部サイトへリンク) - 第8回 ~柏の大地に根ざした女流歌人~
館山 一子(たてやま かずこ) 広報かしわ:平成30年12月15日号(1567号)(外部サイトへリンク) - 第9回 ~関東最古の教会堂を支え、新時代を見据えたリーダー~
湯浅 長左衛門(ゆあさ ちょうざえもん) 広報かしわ:平成31年1月15日号(1569号)(外部サイトへリンク) - 第10回 ~卓越した交渉力を武器に、柏発展のレールを敷いた政治家~
寺嶋 雄太郎(てらじま ゆうたろう) 広報かしわ:平成31年2月15日号(1571号)(外部サイトへリンク) - 最終回 ~柏が生んだ「大正の法然上人」~
山崎 弁栄(やまざき べんねい) 広報かしわ:平成31年3月15日号(1573号)(外部サイトへリンク)
「柏に輝いた人たち(web拡大版)」(広報かしわ平成28年4月15日号から平成29年3月15日号に掲載)も併せてご覧ください。
了慧(りょうえ)和尚 ~飢饉に苦しむ農民たちのために立ち上がった義僧~
どんな人物
了慧(りょうえ)和尚の墓塔(右から2番目)(高柳・善龍寺)
天明の大飢饉にあえぐ農民たちの難儀を見兼ね、鷹場や小金牧の負担軽減を願い出た、高柳村(柏市)善龍寺の僧侶。村々に呼びかけ、先頭に立ったことで牢屋に入れられ、8年の後出所するものの、間もなく没す。生年不明~寛政11年(1799)。
村々への檄文
緊急の廻状が記された御用留(花野井・吉田家文書)
「7月5日四つ時(10時)、印鑑を持って善龍寺に集まること」
天明5年(1785)6月13日、柏周辺の68カ村の名主たちに、緊急の廻状が出されます。発信者は善龍寺の了慧和尚。「水戸藩の鷹場内には猪や鹿などが多く、作物を食い荒らすため、収量が減り、田畑は荒地が増えている。これに加え天明の飢饉が発生し、飢えに苦しむ農民たちは、村を捨てて逃げるほかない。」と、水戸藩の家老、中山備前守に村人たちの窮状を訴え、鷹場の負担軽減を願い出るためでした。
水戸藩の鷹場
寛永10年(1633)、水戸家は紀伊・尾張両家とともに、鷹場を幕府から拝領します。水戸家の鷹場は武蔵国葛飾郡(現埼玉県)、下総国葛飾郡・相馬郡(現千葉県北西部)の200か村に及ぶ広大な地域でした。これらの村々はそれぞれの領主支配に加えて、鷹場の支配も受けることになったのです。元禄期、五代将軍綱吉の「生類憐みの令」などにより、一時的に停止した時期はありましたが、幕藩体制の強化を目指す八代将軍吉宗の登場によって復活されます。
鷹狩りは、徳川将軍家と将軍家から許可された大名だけが実施できる特権であり、鷹場の設置はその権威の象徴だったのです。
鷹狩りの場所に指定された鷹場では、鷹の餌となる鳥などの殺生はもちろん、害獣退治用の鉄砲・弓矢の所持まで、厳しく禁止されました。柏市域の村々は水戸家の鷹場に指定され、しかも周辺には幕府の御用牧場である小金牧も広がっていました。鹿や猪も多く、農作物は毎年のように甚大な被害を受けていたのです。
天明の飢饉
これに追い討ちをかけたのが天明の飢饉です。天明元年(1781)大雨による利根川出水のため、大きな被害を出したのをはじめ、毎年のように洪水・台風・地震・噴火・干ばつなどが発生し、人々の食料を奪っていきました。北日本では大凶作によって村々が崩壊し、草むらに白骨が散乱したと記録されるほどでした。
徒党(ととう)の禁止
徒党を禁止した定書(片山・深山家文書)
片山村(柏市)名主家には、冒頭に紹介した了慧和尚による廻状の件から3年後の天明8年8月、奉行所から出された古文書が残っています。
「何事によらず、宜しからざる事に、百姓大勢集まって相談することを徒党という。徒党して願い事を企てることを強訴(ごうそ)という。あるいは、皆で申し合わせ村から立ち退くことを逃散(ちょうさん)という。これらは以前から禁止しており、もしこうした者どもを見つけたときは、ただちに役所に申し出るように。褒美として銀百枚と、場合によっては名字帯刀も許す。」(訳・一部略)
さかんに密告を奨励していますが、農民たちが団結して行動することを幕府は警戒し、仲間と集団で願い出ることを厳禁としたのです。
入牢
了慧和尚はたとえ処罰されるとしても、人々の苦難を見過しにはできませんでした。凶作によって飢えに苦しむ中、鷹場であるが故、田畑を荒らす害獣の駆除さえもままならなかったからです。
しかし、いかなる理由があろうとも、徒党や強訴を企てたことは幕府にとって重罪です。了慧和尚は結局咎人として入牢させられ、8年に及ぶ獄中生活を送ることになります。
農民たちが和尚の呼びかけに応じて、善龍寺に集まった記録は見つかっていません。正面切って、幕府への抗議活動に参加するのは、あまりにも危険だったのです。ただし、処罰覚悟で自分たちのために立ち上がった了慧和尚を、農民たちは見捨てることはありませんでした。地元、高柳村では名主代の友右衛門を中心として、粘り強い赦免運動が出獄まで続いたのです。
了慧和尚が住職を務めた善龍寺は、高柳村の村名を山号とする天台宗の古刹で、本堂の手前には上野寛永寺から下賜された五葉松が、見事な枝振りを見せています。
高柳山善龍寺の本堂本堂
以降、記事を順次掲載していく予定です。ご期待ください。
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