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更新日令和4(2022)年1月21日
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柏に輝いた人たち(web拡大版)
このコーナーでは、さまざまな分野で活躍した柏ゆかりの歴史上の人物を紹介します。
(広報かしわ平成28年4月15日号から平成29年3月15日号にかけて連載された記事を、Web用に内容拡充したものです)
- 第1回~幕末に活躍した松ケ崎村出身の儒学者~
芳野金陵(よしのきんりょう)広報かしわ:平成28年4月15日号(1503号)(外部サイトへリンク) - 第2回~十余二の夜明けを駆け抜けた開墾請負人~
市岡晋一郎(いちおかしんいちろう)広報かしわ:平成28年5月15日号(1505号)(外部サイトへリンク) - 第3回~鷲野谷学校に赴任した「日本点字の父」~
石川倉次(いちかわくらじ)広報かしわ:平成28年6月15日号(1507号)(外部サイトへリンク) - 第4回~柏の原野を拓いた不屈の魂~
小林幸右衛門・石塚与兵衛(こばやしこうえもん・いしづかよへえ)
広報かしわ:平成28年7月15日号(1509号)(外部サイトへリンク) - 第5回~柏の自然を愛した、こころ美しき詩人~
八木重吉(やぎじゅうきち)広報かしわ:平成28年8月15日号(1511号)(外部サイトへリンク) - 第6回~手賀沼と鷲野谷の景観を賞賛した、明治の文人~
大町桂月(おおまちけいげつ)広報かしわ:平成28年9月15日号(1513号)(外部サイトへリンク) - 第7回~「柏の関東宝塚計画」を立案し、実行した実業家~
吉田甚左衛門(よしだじんざえもん)広報かしわ:平成28年10月15日号(1515号)(外部サイトへリンク) - 第8回~手賀原氏の誇りを胸に、出獄人保護に一生を捧げた社会事業家~
原胤昭(前篇)(はらたねあき)広報かしわ:平成28年11月15日号(1517号)(外部サイトへリンク)
~手賀の地を愛した日本人初のサンタクロース~
原胤昭(後編)広報かしわ:平成28年12月15日号(1519号)(外部サイトへリンク) - 第9回~手賀沼の景観とゴルフを愛したジャーナリスト~
杉村楚人冠(すぎむらそじんかん)広報かしわ:平成29年1月15日号(1521号)(外部サイトへリンク) - 第10回~柏の歴史を最初に発信した鷲野谷の実業家~
染谷大太郎(そめやだいたろう)広報かしわ:平成29年2月15日号(1523号)(外部サイトへリンク) - 最終回~柏駅の開設に尽くした布施の医師~
小柳七郎(こやなぎしちろう)広報かしわ:平成29年3月15日号(1525号)(外部サイトへリンク)
「続・柏に輝いた人たち」(広報かしわ平成30年4月15日号から平成31年3月15日号に掲載)も併せてご覧ください。
芳野金陵
芳野金陵(よしのきんりょう)
どんな人物?
幕末から明治初年にかけて日本の公教育の第一線で活躍した、松ヶ崎村(現柏市)出身の儒学者。今の柏市発展の指導者らを育成した師的存在。
昌平坂学問所教授として安井息軒(やすいそっけん)、塩屋宕陰(しおのやとういん)とともに「文久の三博士」と称される。名前は世育(せいいく)、字名(あざな)は叔果(しゅくか)、金陵は雅号。享和2年(1802)~明治11年(1878)
江戸へ
芳野金陵の父である南山は、松ヶ崎村で医業を営む一方、学問にも優れた人でした。やがて南山は江戸に出て神田で町医者を開きますが、14歳の金陵も伴います。学問に非凡な才能を、わが子に感じていたのかもしれません。父を師として論語や史記・漢籍等の学問を修めました。
文政6年(1823)、22歳の時に、父の許しを得て江戸に遊学します。当時の高名な儒学者亀田鵬斎(かめだほうさい)へ入門を希望しますが、高齢により、その子の綾瀬(りょうらい)に入門します。亀田綾瀬は、関宿藩の儒官を勤めていました。
文政9年、金陵は浅草に家塾を開いていますが、火災等で日本橋、八丁堀等に移転します。論語や孟子等の古典を中心に教え、20年にも及ぶ家塾での教授でした。
(覚王寺。金陵手植えの梅)
田中藩への仕官
弘化4年(1846)には、駿河田中藩の儒学者として任官します。田中藩本多氏は、下総に一万石の飛領地を持つ大名で、金陵の出身地の松ヶ崎村も同藩の領分であった縁からでしょうか。田中藩では財政改革に取り組む一方、藩校日知館での文武奨励等、優秀な人材の育成に努めました。
藩主の本多正訥(まさもり)は、幕府が学問所奉行の創設にあたってその第一に登用したほどの博学でした。金陵はこの藩主に建議し、江戸藩邸に日知館の分校を開き、漢学・史学・国学等の学問のほか武術等も教えました。金陵は漢学を担当。成績優秀な子弟は藩主より褒美が与えられたり、次男・三男等には別家を許されたのです。正訥の金陵への信頼は厚いものがあり、維新後も本多家との関係は変わりませんでした。
幕府への建言
嘉永6年(1853)アメリカのペリー提督が軍艦4隻を率いて浦賀に来航すると、日本中は大混乱に陥いります。文久2年(1862)、福井藩主松平春嶽(まつだいらしゅんがく)が幕府の政事総裁につくと、金陵は盛んに政策や人材の推挙等で意見を述べるようになり、その見識が評価されていきます。生麦事件による薩摩藩とイギリス艦隊の交戦など、朝廷や尊王攘夷派の動きが急を告げていた時期でした。そして幕府の公式学問所である昌平坂学問所の儒官として招かれます。
「欧米列強のうちアメリカは南北戦争の渦中にある。ロシアもクリミア戦争の痛手が残っており、オランダもこれまでの関係から日本には手を出さないであろう。従って我が国が真剣に対策を立てるべきはイギリスとフランスである。」
彼の資料には当時蝦夷地と呼ばれた北海道など北方の絵図資料が多いことに驚かされます。藤田東湖(ふじたとうこ)や藤森弘庵(ふじのもりこうあん)、安井息軒、塩屋宕陰といった当代一流の学者たちとも親しく付き合い、海防論議を重ねました。
冷静な情報収集に裏付けられた金陵の見識は、松平春嶽ら幕府要人の心を捉えていったのです。明治元年(1868)、学問所は明治新政府の管轄になりますが、金陵は引き続き教授に請われ、同3年に廃止されるまでその任にあたりました。
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(蝦夷地図)
私塾での教育
金陵の私塾には国の将来を憂える多くの志士が集まりましたが、その多くは水戸天狗党・赤報隊の蜂起など幕末の動乱に身を投じ、若い命を散らしていきました。金陵が長州藩きっての逸材と評した久坂玄瑞もその一人で、彼らの志を世に伝えるべく、多くの評伝を書き残しています。
柏市域からは鷲野谷村の染谷大太郎や布施村の小柳七郎などが金陵の下で学びました。やがて彼らは地域の指導者となり、鉄道の敷設など、柏の基盤を築いていくことになるのです。私塾から発展した逢原学校の名簿には市域出身者の名前を多く認めることができます。
大学退官後は大塚に隠居して余生を送り、精力的に四書五経等の著述をしますが、明治11年、77歳を一期に世を去ります。著作の多くはたびたびの災禍によって失われてしまいましたが、『金陵詩鈔』や没後門人たちが集めた『金陵遺稿』等が残されました。
柏ゆかりの儒学者芳野金陵は、東京谷中の天王寺に静かに眠っています。
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(金陵の墓塔)
市岡晋一郎
市岡晋一郎肖像(二世五姓田芳柳筆)
どんな人
信州日出塩村(ひでしおむら・現長野県塩尻市)に生まれ、新政府の東山道軍に参加。明治維新後は三井組の代人として、旧小金牧のうちの十余二(とよふた)村の開墾事業を担当。農業経営を進め、小学校や村社を建設するなど、新村の基盤整備に役割を果たしました。その一方、開墾地の所有権をめぐって争われた裁判では、入植した農民たちと深刻な対立を生むことになります。
スマートシティ・十余二の原点
現在の「柏の葉地区」は国道16号や常磐自動車道、つくばエクスプレスなど交通の使に恵まれ、東京大学柏キャンパス、千葉大学環境健康都市園芸フィールド科学教育研究センター、東葛テクノプラザなど、国・県の各種機関や施設が集積し、最先端のエコ技術を集めた「スマートシティ」として、全国から注目を集めています。市岡晋一郎は柏市の新しい顔「柏の葉地区」の原点である、十余二村の成立に深く関わった人物です。
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変貌著しい柏の葉地区
戊辰戦争に従軍
日出塩村の名主家に生まれた市岡晋一郎は農業に出精する傍ら、国学者平田篤胤(あつたね)の勤皇思想に強い影響を受けながら育ちました。
日出塩村は木曽路の北部、中山道贄川(にえかわ)宿と本山宿の間に位置する小さな村です。左右から山が迫って耕地は狭く、中央の奈良井川は、集落よりもはるかに低地を流れており、農業用水としての取水は困難でした。厳しい暮らしの中、若き晋一郎は父を助け、用水路の建設や新田開発を進めています。
慶応4年(1868)、中山道を進軍してきた新政府の東山道軍に、木曽福島や贄川の同志たちと参加します。もともと、木曽谷や伊那谷などの長野県南部は、平田国学が盛んな地域で、尊王思想に燃える彼らは、国の将来に大きな危機感を募らせていました。
東山道軍の袖証と供奉日記
戊辰戦争で東山道軍に身を投じたことにより、晋一郎の運命は大きく開けます。この陣中には、小金牧の開墾事業を主導する北島秀朝(きたじまひでとも)がおり、しかも資金を調達していたのは、後に深く関わる豪商三井八郎右衛門でした。
岩倉家からの拝領目録と短刀
明治維新のあと、新政府の首班となる岩倉具視(いわくらともみ)は、東山道軍の総督に子である具定(ともさだ)、副総督はその弟、具経(ともつね)を指名しますが、いずれも19歳と17歳の若年でした。このため、信頼する北島秀朝を大監察として補佐させたのです。
北島は明治元年(1868)、江戸鎮台府の判事に任じられ、民生安定を担当します。この頃江戸(東京)には、幕府の崩壊によって収入の道を断たれた窮民たちが大量に生まれていました。いずれも旧徳川家恩顧の家臣やその関係者たちです。天皇東行・東京奠都(てんと)を目前にした新政府にとって、窮民授産・治安維持は急務となっていました。その対策として、北島は東京近郊に広がっていた旧幕府の小金牧・佐倉牧を廃止し、窮民たちを入植させることを計画立案します。この献策は採用され、開墾事業が始まりました。北島は開墾局知事となり、豊四季(とよしき)・十余二といった開墾村に名前を付けていきました。
十余二村の建設
新政府は小金・佐倉牧の開墾事業を進めていくにあたって、治安維持を担う開墾局と、開墾の実務を担当する開墾会社を設立します。開墾会社は東京の商人たちの組織で、それぞれに開墾地を受け持ち、惣頭取を務めたのが三井八郎右衛門でした。明治2年、岩倉具視に見出され、北島を補佐していた市岡は、三井組の現場責任者として十余二開墾を担当します。農業経営の手腕を発揮し、養蚕・製茶などの殖産事業を積極的に進めたり、小学校や村社の建設など、新しい村づくりに尽力しました。
皇大神社(こうたいじんじゃ)と開墾碑
市岡が学んだ平田国学の影響は、これらの民生事業にも象徴的に表れています。入植当時、生産性の低い開墾地の生活は厳しく、子供たちを学校に通わせることもままなりませんでした。そこで、校舎建設や教員給与などの経費を、三井組に負担させた小学校を開校させます(明治8年)。子供たちが無料で教育を受けられる「三井学校」は、明治初期としては相当に先進的な取り組みといえるでしょう。さらに、人々の精神的な拠り所とするため、皇大神社を勧請し、十余二村の村社としました(明治15年)。建設資金は岩倉具視や大隈重信・青木周蔵などから集めていますが、いずれも、入植地に多くの土地を所有する維新の元勲たちでした。
神社寄付簿(岩倉・大隈・青木らが名前を連ねる)
入植地をめぐる争い
一方で、入植地の建設は困難を極めます。小金牧は、もともと台地で水利に恵まれず、耕作には適さない荒蕪地(こうぶち)でした。
江戸時代中頃の享保期には、8代将軍徳川吉宗による財政改革の一環として、牧の開墾が試みられたこともありました。幕府による半ば強制的な新田開発によっていくつかの新田村がつくられ、移住する農民もいました。しかし、やせた台地での生活は苦しく、無民家となる新田村も出現するなど、事実上失敗しています。
明治初年の開墾も同様でした。容赦のない風雨により、家屋が倒壊し、脱走者が続出するなど、新しい村の建設は市岡の思いどおりには進まなかったのです。開墾事業の破綻は目に見えていました。
明治5年、目標を達成しないまま開墾会社は解散し、土地の所有権をめぐる裁判で、開墾民との深刻な対立が生まれます。三井側を代表して対処した市岡ですが、彼の妥協を許さない一徹な姿勢が、問題を長期化させることにもなりました。
市岡は明治26年7月、三井組を退職して、故郷の信州日出塩村に帰ります。同年29年持病のリウマチスが悪化し、東京上野に入院しますが、11月27日死去。66歳でした。
平田国学を学び、尊王思想に燃え、自らを引き上げてくれた北島秀朝や三井組に報いるため、新しい村の建設に心血を注いだ市岡晋一郎。最後は、入植者たちの敵役となって柏から去っていきました。
皇大神社に建つ小金原開墾碑
以降、記事を順次掲載していく予定です。ご期待ください。
石川倉次
小林幸右衛門・石塚与兵衛
八木重吉
大町桂月
吉田甚左衛門
仕様上、ホームページ内テキスト部では「吉田」と表記しております。
原胤昭(前編)
原胤昭(後編)
杉村楚人冠
染谷大太郎
小柳七郎
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