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更新日令和7(2025)年1月29日
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第12回手賀沼~景観を資源に~
手賀沼でボートに乗って遊ぶ人びと
手賀沼
「東京よりわずか一〇里にして、山中的の仙境あるかと驚喜いたし候。手賀沼は印旛沼よりも風致大に優り申し候」。旅行作家のさきがけとして、日本中に足跡を残した文人・大町桂月(おおまちけいげつ)が鷲野谷を訪れた時の言葉です。
「手賀沼絵図」宝永元年(1704)
柏市は昭和29年の市制施行以来、劇的に表情を変えてきましたが、同様に大きな歴史の波を受けてきたのが市域の東北部に横たわる手賀沼です。市民の憩いの空間として親しまれている手賀沼の記憶を少しだけたどってみましょう。
手賀沼は、東京から一番近い自然の沼です。沼には谷津(やつ)と呼ばれる無数の湿地が発達し、人びとの生活を支えてきました。谷津を水田化しながら、布瀬・手賀・柳戸・泉・鷲野谷・増尾などの村々が形作られていった様子が、中世の古文書から見ることができます。
人々は谷津に稲を植え、村を造っていった(大井地先)
人々を苦しめた水害(昭和13年・大井地先)
近世には、ウナギや鴨などが手賀沼ブランドとして名を上げ、江戸の食通たちの胃袋を満たしました。
鴨猟は手賀沼の冬の風物詩であった(昭和17年)
近世には失敗の連続だった沼の干拓ですが、近代には入ると食糧増産を目論む政府によって、機械を使った本格的な工事が計画されます。これに対し、その景観に注目し「手賀沼を地域おこしの観光資源として活用すべき」という考え方が、大正期の終わり頃から発信されるようになります。東京に近いという地の利を生かし、オリンピックのボート競技場やディズニーランドを誘致しようという計画が真剣に進められました。しかし、戦後の高度成長は沼の流域人口を爆発的に増加させ、環境問題を引き起こします。手賀沼は水質汚濁の代名詞として使われるようになり、美しい景観とともにこれらの計画は消えていきました。現在は北千葉導水事業などによって浄化が進み、新たな水の公園として人びとを集めつつあります。
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