第12回かしわ・その時 明治23年3月25日、利根運河、営業運転開始

最終更新日 2013年5月22日

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 今回の「かしわ・その時」は、今から123年前の明治23年(1890)3月25日、日本初の西洋式運河で柏市の北端を流れる「利根運河」が開通(営業運転開始)した日としました。

 かつて、物資を運ぶために重要な役割をはたしていたのは船でした。人や馬と違って、当時の劣悪な道路事情の中でも、一度に大量の荷物を運ぶことができたからです。江戸時代の初め、それまで東京湾に流れていた利根川を、銚子へと付け替えた大改修工事も、新しく日本の中心となり大消費地となりつつあった江戸への物資輸送が、その主な目的の一つであったと考えられています。利根運河が建設された目的もまさにここにありました。

 「第12回かしわ・その時」では、柏市の北西部を流れる利根運河の成り立ちを紹介しながら、当時の物資輸送を考えます。(平成25年3月22日掲載)

日本の土木史上屈指の大工事―利根運河の開鑿

 国道十六号を北上し野田市方面に向かうと、柏市と野田市の境界付近に柏大橋が架かっていますが、この下を流れるのが利根運河です。運河とは船が移動するために人工的に造られた水路で、利根運河は茨城県以北や柏市周辺の物資を、効率よく短時間に東京へ運ぶために開鑿(かいさく)されました。船戸(柏市)から深井新田(流山市)へのルートが完成したことにより、利根川と江戸川間の舟運が大きく短縮されたのです。

大正4利根運河

(大正4年(1915)頃の利根運河・上部に見える橋は東武鉄道(個人蔵))

  明治14年(1881)、茨城県会議員の広瀬誠一郎(ひろせせいいちろう 1837~1890)らは、茨城県令(当時の県の長官)の人見寧(ひとみやすし 1843~1922)に利根運河の建設計画を建議します。天然の良港もなく、鉄道も通っていなかった当時の茨城県にとって、利根運河の開鑿は有効な解決策と考えられていたのです。

 当時の道路状況は劣悪で、馬車などで物資を輸送するのはなかなか大変でした。したがって鉄道開通以前、商品を大量に輸送する手段として期待されたのは、海や河川の舟運でした。茨城県の諸地域からの物資は、利根川を関宿(現野田市)まで上り、そこで分流する江戸川を通じて東京方面へ 運ばれました。ところが、江戸時代の中頃から、上流から運ばれる土砂によって利根川中流域の河床が徐々に上昇し、冬場の渇水期等には船の航行に支障をきたすようになっていました。利根川を遡ってきた物資を布施河岸で荷揚げし、流山河岸まで陸送して再び江戸川から船積みして江戸(東京)の運ぶルートが繁盛したのはこのためです。

利根運河経路図

(利根川(柏市船戸)と江戸川(流山市深井新田)を結ぶ利根運河)

 利根川河岸と江戸川河岸間の陸送経路も、荷の積み換えと道路状況の悪さから、苦労の多いものでした。そこで、茨城県の人たちは、物資の流通の便の向上を求めて、利根川と江戸川を結ぶ運河を切望したわけです。もちろん、これを支持する動きは千葉県内にも見られ、布施村(現柏市布施)出身の県会議員成島魏一郎(なるしまぎいちろう 1853~1923)も、千葉県令船越衛(ふなこしまもる 1840~1913)に運河計画の推進を働きかけています。

 明治17年(1885)に、茨城県と千葉県の間で「江戸利根運河協議書」が交わされ、計画が進められます。しかし、建設推進派であった人見の茨城県令辞任により、運河建設を県の公共事業として実施することができなくなり、明治20年(1887)、人見と広瀬の二人が中心となって利根運河株式会社が創立されます。

ムルデル写真

(左側の人物がムルデル(『ムルデル顕彰碑建立記念誌』より))

 利根運河を設計し工事を監督したのは、オランダ人土木技師ムルデル(1848~1901)です。ライン川下流の低湿地帯に位置するオランダは治水対策に優れ、特に運河建設の分野では世界のトップレベルにありました。ムルデルはオランダのライデンの出身の土木技術者で、日本政府の顧問外国人技師として明治12年(1879)に来日しました。それから約11年間日本各地の港湾築港や河川改修を担当、利根運河は彼の最後の大仕事でした。

運河株券(大)

(利根運河株式会社の株券(個人像))

  明治21年(1888)の掘削工事開始から23年の全線通水まで、工事労働者は延べ220万人、当初40万円と見積もられた予算は57万円にも膨れていました。会社は、着工にこぎ着けるに当たって多額の民間資本を集めましたが、株主には市岡晋一郎(いちおかしんいちろう 1830~1896)や成島魏一郎などの名前が見られます。市岡は千葉県北西部に広がっていた小金牧開墾地の中で、三井組が担当した柏市十余二(とよふた)地区の責任者で、柏地域の経済発展に果たす利根運河への期待の大きさを物語っています。ムルデル記念碑

(運河水辺公園のムルデル顕彰碑、(昭和60年・1985)有志によって建てられました。)

  こうして日本の土木史上、指折りの大工事といわれた利根運河は、明治23年(1890)、完成しました。運河水辺公園(流山市)には、これを記念した利根運河碑やムルデル顕彰碑が建てられています。

運河の賑わい

 運河浚渫

(昭和14年(1939)頃の運河の浚渫(個人蔵))

  開通当初は、汽船が大波を起こしての堤防を傷めると心配され、運河では荷物は艀(はしけ)に積み換えて輸送されましたが、やがて汽船の航行が許され、物流はますます活発になりました。当地や茨城県方面から東京方面へは米麦・木材・薪炭などが、東京方面から当地や茨城県方面へは衣料などの日常品が主に運ばれました。会社は通行料の徴収を利根川と江戸川口の両方で行い、このため、水堰橋付近(現柏市船戸地先)は、廻漕店・菓子屋・酒屋・料理屋・足袋屋などの商家が運河沿いに並び、賑わいました。また、運河完成と同時に植えられた桜は、「運河の桜」とよばれ、近在や東京方面からの花見客がやってきました。四国八十八ヶ所霊場を模して作られた運河霊場八十八ヶ所も名所として大勢の人が訪れました。現在でも春と秋には札所をめぐる大師巡りが行われており、今年(平成25年)の4月21日には創立百周年の記念式典も計画されています。

運河の桜

(昭和6年(1931)頃の 運河の桜(個人蔵))

 しかし、日本鉄道土浦線(常磐線)や成田鉄道(成田線)が開通すると、次第に鉄道に荷物を奪われ、会社は経営を悪化させました。そのような状況下、会社は昭和16年(1931)の大洪水で、大打撃を受け、解散を余儀なくされました。

水堰倒壊

(昭和16年(1941)水害により倒壊した水堰 (個人蔵))

  その後しばらくの間、運河自体も通水を止められていました。しかし、東京などの水不足解消対策として利根川の水を江戸川に流すことが計画され、これに利根運河の流路が利用されることになりました。昭和50年(1975)に運河に流れがついによみがえり、私たちはその雄姿を現在見ることができるのです。

 現在の利根運河

(現在の利根運河、水堰橋付近)

資料提供(敬称略)

 山中金三、藤田徳雄

参考文献

  • 『柏市史 近代編』(柏市史編さん委員会 2000)
  • 『歴史ガイドかしわ』(柏市史編さん委員会 2007)
  • 『ムルデル顕彰碑建立記念誌』(ムルデル顕彰碑建立実行委員会 1985)
  • 『利根川舟運と利根運河』(千葉県立関宿城博物館企画展 展示図録、2010)

情報発信元

生涯学習部文化課

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