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更新日令和3(2021)年2月26日

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第九回 かしわ・その時「安政2年10月1日~芳野金陵、藤田東湖と洋夷を談ず 安政の大地震前夜物語~」

今回の「かしわ・その時」は、今から175年前、松ヶ崎村(現柏市松ヶ崎)出身の儒学者芳野金陵(よしのきんりょう、1803年~1878年)と、尊皇攘夷の思想家である藤田東湖(ふじたとうこ、1806年~1855年)が夷敵(いてき)の脅威をめぐって大いに談じた安政2年(1855年)10月1日としました。

天下泰平を謳歌した徳川幕府の治世も後半になると、幕府や諸藩の財政難、凶作による農村の荒廃、治安の悪化、一揆多発などにより行き詰まりをみせはじめ、さらに日本近海にはアメリカやイギリスの船が出没するなど、社会全体に不穏な空気が満ちてきます。

この頃、芳野金陵は、幕府の昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)の儒官として、日本の将来を見据えた数々の建言を行い、水戸藩の藤田東湖らと親しく交わってました。

「第九回かしわ・その時」では、近代日本の誕生を見据え、激動の幕末を生き抜いた、芳野金陵の活躍を紹介します。

(平成24年9月28日掲載)

水戸学の大成者―藤田東湖―

外国船の脅威にさらされ日本が大きな危機を迎えたとき、尊皇攘夷思想によって日本の独立を守り、国難を打開しようとしたのが、水戸藩の会沢正志斎(あいざわせいしさい、1782年~1863年)であり藤田東湖です。「水戸学」は水戸藩で形成された学問で、その精神は「大儀を明らかにして人心を正す」というもので、全国の勤皇志士の間に深く浸透し、近代日本の誕生に大きな影響を与えました。水戸藩主徳川斉昭(とくがわなりあき、1800年~1860年)に重用され、藩政改革や海防問題に取り組んでいた藤田東湖。同じ折衷学派(儒学者の一派)の亀田鵬斎(かめだほうさい、1752年~1826年)の流れを汲み、勤王派の学者として異国の脅威に備えていた金陵は、仕える立場は違ってもやはり危機感を共有する同志だったのです。

幕府の海防参与に任じられた斉昭を補佐することになった東湖は、安政2年10月1日、雨の中金陵を訪ね、夜半まで酒を酌み交わしながら談じます。金陵の子芳野櫻陰(よしのおういん、1844年~1872年)の「東湖藤田先生正気歌摸本跋」によれば「二人は炉を囲み穏やかに酔っていたが、話題が洋夷のことになると、突然嘆き憤り、激しく目を怒らせ、大声を張り上げた。その英烈にして剛毅な気合に、周りの人々は心を奮い起こさせ、感動せずにはいられなかった」と記しています。

そして運命の翌10月2日、江戸を震度6の大地震が襲いました。世に言う「安政の大地震」です。東湖は一度は避難したものの、母親を守るために屋敷内に戻ったところ、崩れてきた建物の下敷きとなって圧死してしまいました。江戸市中の被害は甚大で、死者は7千から1万人、倒壊した家屋は1万4千戸余りと推定されています。大名屋敷も被害を受け、小石川(現文京区小石川)の水戸藩邸では藤田東湖や戸田忠太夫(とだちゅうだゆう)が死亡しました。戸田は東湖と共に「水戸の両田(りょうでん)」と称された重臣で、これまで藩主徳川斉昭を支え、藩政改革を進めてきた二人です。この大地震によって優秀な指導者を失った水戸家中は混乱期を迎え、明治維新に大きな役割を果たすことはできなくなりました。金陵は「祭藤田彬卿文」(彬は東湖の本名)の中で、この学問の友であり、憂国の同志の被災を嘆き悼みました。

奇しくも二人の子供である藤田小四郎(ふじたこしろう、1842年~1865年)と芳野桜陰は、幕末の動乱の中「水戸天狗党」に参加し、早世しています。

古典の教授、芳野金陵

南山肖像(金陵の父・芳野南山:個人蔵)
芳野金陵は下総国相馬郡松ヶ崎村の医師芳野南山(よしのなんざん、1767年~1831年)の子として、享和2年(1802)に生れました。名前は世育(よいく)、字名(あざな)は叔果(しゅくか)といい、金陵(きんりょう)は雅号(がごう)です。父の南山は、松ヶ崎村で医業を営んでいましたが文化12年(1815)、14歳の金陵を伴って江戸に出て、神田(現千代田区神田)で町医者を開きます。南山は学問にも優れた才能を持った人で、金陵は父を師として論語や史記・漢籍等の学問を修めました。

文政6年(1823)、22歳の時に、父の許しを得て江戸に遊学します。父の勧めで当時の高名な儒学者亀田鵬斎(かめだほうさい)へ入門を希望しますが、鵬斎が高齢だったことから、その子の亀田綾瀬(かめだりょうらい)に入門します。綾瀬は、関宿藩の儒官を勤めていました。

文政9年(1826)には、浅草(現台東区浅草)に家塾を開きますが、火災等で日本橋、八丁堀等に移転します。論語や孟子等の古典を中心に教え、20年にも及ぶ家塾での教授でした。

田中本多藩の儒官から昌平坂学問所の儒官へ

金陵肖像(金陵肖像:個人蔵)
弘化4年(1847)には、田中本多藩の儒学者として任官します。田中藩は、駿河国田中村(現静岡県藤枝市)に城を持ち、老中を輩出する譜代大名でした。江戸初期から下総に1万石の飛領地を持っており、金陵の出身地である松ヶ崎村も田中本多藩領に含まれていました。

このときの藩主、本多正寛(ほんだまさひろ、1808年~1860年)は藩政改革を行い、天保8年(1837)に藩校日知館(にっちかん)を創設した人物です。日知館では漢学・和学・医学等のほか武術等も教えていました。金陵は、窮乏だった藩の財政改革に取り組み、かつ一方では藩校での文武を奨励し、遊学者への資金提供等、優秀な人材の育成に取り組んで積極的に藩の活性化に努めました。

次の藩主、本多正訥(ほんだまさもり、1827年~1885年)は博学で知られ、金陵の建議を入れ江戸藩邸に江戸日知館を設立しました。金陵は漢学を担当して藩政を担う人材の育成に腐心しました。成績優秀な子弟は、藩主より褒美が与えられ、次男、三男等には別家を許されました。

黒船(1853年)の来訪といった国難にあたっては、田中本多藩の儒官として国土防衛を考究し、幕府の重臣にも対策を進言します。このため、安政の大獄(あんせいのたいごく)では、危険人物として狙われることにもなりましたが、日本の将来を見据えた数々の建言はやがて幕府に認められるようになっていきます。

金陵愛用の机(金陵愛用の文机:柏市教育委員会蔵)
文久2年(1862)、福井藩主松平春嶽(まつだいらしゅんがく、1828年~1890年)が幕府の政事総裁につくと、金陵は盛んに政策や人材の推挙等で意見を述べるようになります。そして、幕府直轄の昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)の儒官として招かれ、安井息軒(やすいそっけん、1799年~1876年)、塩谷宕陰(しおのやとういん、1809年~1867年)とともに「文久の三博士」と称されています。この頃の国内は、生麦事件を原因として薩摩藩とイギリス艦隊が交戦する等、朝廷や尊皇攘夷派(そんのうじょういは)の動きは急を告げ、倒幕に向かっていました。

明治元年(1868)、昌平坂学問所は明治新政府の管轄になりますが、金陵は引き続き教授に請われます。翌年には昌平坂大学校と改められますが、同3年には廃止され、免官になります。

金陵遺稿集の版木(「金陵遺稿集」の版木:柏市教育委員会蔵)
大学校退官後は、大塚(現豊島区大塚)に隠居して余生を送りますが、子弟の教育にもあたりました。鷲野谷(現柏市鷲野谷)村の名主、染谷治右衛門もわが子大太郎を金陵の塾に送り出した一人です。

大塚では精力的に四書五経等の著述生活を送りますが、明治11年(1878)、77歳を一期に世を去ります。墓地は東京都台東区の谷中天王寺にあります。著作の多くは、たびたびの災禍によって失われてしまいましたが、『金陵詩鈔(きんりょうししょう)』や没後門人たちが集めた『金陵遺稿』等が残されています。

(写真)1・芳野金陵肖像2・市所蔵作品若しくは文机

熱血漢・芳野桜陰

芳野桜陰(弘化元年生・1844)は、芳野金陵の第6子として生まれました。通称を新一郎といい、桜陰は号です。父金陵の影響を強く受けて育ち、少年になると父の友人でもあり著名な学者であった安井息軒や塩屋宕陰らに経学を学びました。しかし黒船が来航し、風雲急を告げる幕末、勤皇の志に燃える血気盛んな若者桜陰には、机上の学問は物足りないものになっていたのです。

元治元年(1864)、水戸藩の過激派、藤田小四郎(藤田東湖の子)は、武田耕雲斎(たけだこううんさい、1803年~1865年)らと筑波山に挙兵、尊皇攘夷を天下に示しました。これをみた桜陰も同志と共に鹿島(現茨城県鹿嶋市)の天狗党軍に合流、幕府軍討伐軍と激戦を繰りひろげます。しかし、鹿島郡大船津(現茨城県鹿嶋市)での戦いは圧倒的な数の討伐軍の前に敗れ、水戸の獄に繋がれます。

明治新政府が樹立すると、明治3年(1870)、21歳の若さで昌平坂大学校の助教授に任命され、将来を大いに嘱望されました。しかし間もなく辞任、父金陵が隠棲し私塾を開いていた、大塚の里(現東京都豊島区)で晴耕雨読の日々を送ります。病に侵されていたとされ、明治5年(1872)9月10日、天寿を全うすることなくその短い生涯を閉じました。29歳でした。

参考文献

  • 森 銑三「近世人物夜話」(講談社、1989)
  • 「柏市史 近世編」(柏市史編さん委員会 1995)
  • 「続 柏のむかし」(柏市史編さん委員会 1981)
  • 「沼南風土記 (二)」(沼南町史編さん委員会 1988)
  • 国史大辞典第1巻(吉川弘文館 1979)

歴史講演会のお知らせ

今回のテーマは柏地域特有の歴史課題である「手賀沼の干拓」と、「近代における劇的な変貌」です。それぞれ、柏市の歴史資料に造詣の深い先生をお迎えしました。皆様、是非お出かけください。

日時

平成24年9月29日(土曜日)午後0時30分~4時

場所

沼南公民館大ホール

演題

  1. 近世手賀沼干拓の歴史(柏市史編さん委員 中村勝)
  2. 変貌する柏―太平洋戦争前後の東葛地方―(国学院大学教授・横浜開港資料館館長 上山和雄)

申し込み方法

文化課へ電話にて申し込み受付(04-7191-7414)

歴史発見「かしわ・その時」シリーズ

歴史発見「かしわ・その時」は、毎回、その時々に起きた柏市にとって歴史的な出来事を通して市民の皆様方に地域の歴史を紹介していくコーナーです。

歴史発見「かしわ・その時」シリーズ 一覧

タイトル 概要

第一回

昭和8年7月20日
~柏競馬場駅ができた日~

柏競馬場は当時、東洋一の威容を誇り、「柏を関東の宝塚に」というまちおこし計画の中核をなす施設で、昭和8年7月20日の競馬場駅の開設はこれを象徴する出来事でした。

第二回

昭和54年8月14日

~米軍通信所が返還された日~

日本側に返還された米軍の柏通信所を通して、十余二地区の成り立ちと「柏の葉」開発の歴史を紹介します。

第三回

昭和22年9月15日

~カスリーン台風・水魔が襲来した日~

猛威を振るったカスリーン台風をテーマに、利根川や手賀沼のほとりに暮らした人々と、水魔との苦闘の歴史を紹介します。

第四回

大正9年10月1日

~第一回国勢調査が実施された日~

第一回国勢調査をテーマに、このときの調査データや市内の資料を紹介しながら、近代化の中で農村から商都へと劇的に変貌をとげた柏の姿を追います。

第五回

昭和29年11月15日

~柏市が誕生した日~

町村合併から市制施行をテーマに、当時の懐かしい写真や資料とともに、中核市へと劇的に変貌をとげた柏の原点を紹介します。

第六回

文明10年12月10日

酒井根原の合戦~太田道灌、襲来~

江戸築城で知られる太田道灌と、下総の千葉孝胤が戦った酒井根原の合戦をテーマとして、数少ない当時の古文書史料を手がかりに、謎に包まれた柏の中世を考えます。

第七回

昭和24年1月25日

軍部が恐れた穏健派~牧野伸顕、十余二に永眠~

今から63年前、激動の大正・昭和期に活躍した政治家牧野伸顕が十余二で死去しました。牧野伸顕邸を中心に、鈴木貫太郎・吉田茂らと繰り広げた知られざる終戦への歴史に迫ります。

第八回
「天慶3年2月14日
東国の風雲児 平将門死す~柏に生きる将門伝説を追って~」
京の朝廷に反乱を起こした平将門は関東地方を中心に、千年以上経た今でも根強い人気を持つ武将です。市内に残る将門伝説や信仰を紹介しながら、その成立と人気の謎に迫ります。

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