第七回 かしわ・その時「昭和24年1月25日 軍部が恐れた穏健派~牧野伸顕、十余二に永眠~」

最終更新日 2012年1月24日

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かしわ・その時「昭和24年1月25日 軍部が恐れた穏健派~牧野伸顕、十余二に永眠~」

十余二の様子(昭和20年頃)
牧野邸があった頃の十余二地区の様子
(昭和20年頃、提供:佐藤克一郎)

 今回の「かしわ・その時」は今から63年前、激動の明治・大正・昭和期に親米英派の重鎮として活躍した政治家牧野伸顕(まきののぶあき、1862~1949)が、隠棲地の柏市十余二(とよふた)で死去した昭和24年(1949)1月25日としました。

 「明治維新の三傑」と称される大久保利通(1830~78 )の次男として鹿児島に生まれ、豊富な欧米滞在経験から自由主義を自らの政治姿勢とした牧野伸顕。5.15事件や2.26事件 ではテロの標的となりながらも日米開戦については回避を主張、戦争突入後は早期終結の道を模索していきます。

 「第七回 かしわ・その時」では十余二の牧野伸顕邸を舞台に、時の総理大臣鈴木貫太郎・吉田茂らと繰り広げた、知られざる終戦への歴史に迫ります。

(平成24年1月23日掲載)
 

 

米英協調派の重鎮・牧野伸顕

牧野伸顕
牧野伸顕肖像写真
(提供:外務省外交史料館、国立公文書館アジア歴史資料センター)

 アメリカ軍の戦略爆撃機B29によって、東京一帯が 大きな被害を受けつつあった太平洋戦争末期の昭和20年(1945)3月頃、山林の広がっていた柏市北部の十余二地区に、一人の老紳士が疎開してきました。

 彼の名前は牧野伸顕。文久2年(1862)、明治維新の功労者である大久保利通の次男として鹿児島に生まれ、明治4年(1871)新政府の遣欧使節団の一員として、アメリカに留学。外務省書記生としてロンドン赴任を手始めに各国の駐在公使を務めた後、文部大臣・農商務大臣・外務大臣などを歴任します。第1次世界大戦の講和を議した大正8年(1919)のパリ講和会議では、首席全権大使西園寺公望とともに次席全権として参加し、日本側の実質的な中心人物として役割を果たしました。

 また、大正天皇の病気が悪化したころから昭和天皇の即位まで宮中の事務を統括者として乗り切り、天皇から厚く信頼されるなど、穏健な米英協調派の重鎮 として昭和10年(1935)、伯爵となります。しかし、政治的影響力を強めてきた軍部にとって牧野伸顕 は極めて邪魔な存在であり、5.15事件や2.26事件ではたびたび、反乱部隊の襲撃を受けることになります。

 

 

 

 

 

昭和の2大事件で狙われた牧野伸顕

 昭和7年(1932)5月15日5時半ごろ、軍人グループが首相官邸に乱入し犬養毅首相を暗殺する5.15事件が起こります。このとき、内大臣に就任していた牧野伸顕も襲われ、住宅にピストルが撃ち込まれました。昭和11年2月26日には陸軍の青年将校を中心とした2.26事件が起こり、岡田啓介首相・斎藤実内大臣・高橋是清大蔵大臣・鈴木貫太郎侍従長・渡辺錠太郎教育総監らが襲われました。牧野伸顕 は伊豆・湯河原の旅館「光風荘」に宿泊しているところを襲撃されますが、孫である麻生和子(吉田茂の娘)の機転によって危うく難を逃れます。昭和6年の満州事変の勃発以後、中国進出の拡大を目指す軍部にとって政治家は邪魔な存在でしかなく、その前年、内大臣を辞任したとはいえ、欧米の事情に通じ穏健な協調派であった牧野伸顕は「君側の奸(くんそくのかん)」の代表だったのでしょう。

終戦へ向けて

 牧野伸顕の『回顧録』はパリ講和会議まで、『日記』は昭和13年(1938)までで終わっています。外交官としての活躍はここまでと思っていたのか、十余二での行動をこれらの記録からたどることはできません。しかし、内大臣を辞した後も昭和天皇の牧野に対する信頼は厚く、度々宮中に招されて意見を求められました。牧野が十余二に隠棲するきっかけをつくり、その晩年を看取った元日本医師会会長の武見太郎は著作『戦前 戦中 戦後』の中で次のように記述しています。

 「山の中に住んでいても、しょっちゅういろんな人が来ていた。石黒農林大臣・東郷外務大臣もよく見えたし、鈴木貫太郎総理大臣などは関宿(現野田市)へ帰る途中しょっちゅう立ち寄られていた。その話の内容は、いかにして早期に戦争をやめるかということである。牧野伯が宮中に参上されると陛下は必ず、その問題についてご下問になったそうである。……(8月6日、広島に原子爆弾投下)たしか7日の夜11時ごろであったが、牧野伯を起こして原爆が投下されたことを伝え、私が持っていたデータを見せると「これで軍も押さえることができるであろう。」といっていた。翌8日宮中に参内、陛下にそのことを言上し、牧野伯が退出した後、終戦の御聖断が下される歴史的な御前会議が開かれた。原子爆弾であるという証拠が陛下の手に渡っていたということは、御前会議の運営に非常に意義があったようだ」と。

 また地元寿町会の杉山達夫さん の聞き伝えでは、「8月15日正午に放送された玉音放送(昭和天皇による終戦の詔書)レコード盤を軍部に奪われることを恐れた牧野が、密かに写しを作成し、十余二に保管した」という話も残っています。今となっては事の真偽を確かめることはできませんが、軍部の目を逃れて和平活動をするには、十余二は都合が良かったのかもしれません。

戦後の牧野伸顕

岡田家の写真3
当時、中央の2本の桜の間に牧野邸の門扉があった

 国道16号と平行に走る柏第四小学校前のバス通りに、「寿町」というバス停留所があります。このバス停留所前の桜の古木に囲まれた一角が牧野伸顕の隠棲地でした。この場所はもともと木方という材木関係で財を成した事業家の豪邸だったところで、武見太郎邸と共に立派な邸宅だったそうです。寿という言葉が牧野伸顕 は好きで、後に地名の由来ともなったとも地元では言われています。

 後に岡田病院を経営し千葉県議会議員としても活躍した故岡田敏男医師は、当時柏駅前で診療所を開業し、牧野伸顕を往診していました。自伝『寒雨と激流の中から』の中で、 「牧野さんという方は洒脱な方であった。何一つ、気負いもエラさもなく淡々として冗談をいいながら、時折縁者の気易さからか、武見太郎先生をからかったりしていたことが思い出される」と述べています。この場所にはその後、岡田第二病院が建ち、現在は岡田家の住宅となっています。
(補足)地元寿町会の岡田きよ子さんにお話を伺いました。

牧野伸顕と歴史上の著名人

 「維新の三傑」大久保利通の次男として生まれ、明治・大正・昭和と激動の時代を薩摩閥の中心となって活躍した牧野伸顕。彼の人間関係は実に多彩で、その一族からは後に活躍する人物が多く輩出しています。近現代史に登場する主だった著名人と、牧野伸顕とのかかわりを見ると次のような系譜となりますので、ここに紹介いたします。

牧野伸顕系図

大久保利通(おおくぼとしみち、1830~78)

大久保利通の写真
大久保利通
(国立国会図書館ホームページより転載)

 薩摩藩の下級士族の家に生まれ、西郷隆盛らと討幕運動に参加、坂本竜馬の仲介で長州藩と連合し、王政復古の実現に尽力します。明治維新後は新政府の中核に立ち、版籍奉還・廃藩置県を断行、絶対主義的立場から地租改正・殖産興業政策を推進するなど戦前日本資本主義の基盤を整備しました。一方これらは農民に大きな犠牲を強い、不平士族の恨みを買うもので、西南戦争の翌年、東京赤坂の紀尾井坂で暗殺されます。

 大久保は明治4年(1871)岩倉遣外使節団の副使として欧米を視察しますが、11歳の次男牧野伸顕を同行させ、そのままアメリカに留学させます。この経験が外交官・政治家としての伸顕の基本的考え方に、決定的な影響を与えることになります。伸顕は「最初私はアメリカからドイツへ、兄はフランスへ行くつもりでいたが、使節の一行は人数も多く、子供がいるのは厄介だったためであろうが二人ともアメリカに残ることになった。もし最初の計画どおりにドイツで勉強したなら親独派となり、今ごろ戦争犯罪人となっていたかも知れぬ。考えてみると不思議なことである。」(『牧野伸顕回顧録』)と述懐しています。

 

 

三島通庸(みしまみちつね、1836~88)

三島通庸の写真
三島通庸
(国立国会図書館ホームページより転載)

 明治の内務官僚。薩摩藩に生まれ討幕運動に参加、維新後は山形・福島・栃木などの県令を歴任。農民運動や自由民権運動を弾圧し、福島事件や加波山事件を誘発したことは有名で、明治専制官僚の典型とされています。 牧野伸顕は三島の次女峰子と結婚(明治20年(1887)7月)しましたが、条約改正をめぐる安保条例の発動について、回顧録の中で次のように評しています。「三島警視総監はこれに最後まで反対していたが、諸般の事情からやむを得ず、自分がその実施責任者となった次第であるが、まことに残念だと話していた。世間では圧制を好んだ独善主義者のように言っているが、これは誤解だと思う。三島はあの時代には珍しいほど時勢をよく見ていた人で、どちらかといえば進歩的な性格の持ち主であった」と。




 

 


 

西園寺公望(さいおんじきんもち、1849~1940)

 戊辰戦争に参加して軍功を立てた、京都生まれの政治家。フランス留学の後、ヨーロッパ各国の駐在公使を務め、第2次・3次伊藤博文内閣の文部大臣に就任の後、明治36年(1903)政友会総裁となります。明治39年・44年の2度にわたって内閣を組織しますが、2個師団増設問題で陸軍と対立、辞職に追い込まれます。立憲政治を支持し、政党の健全な発達に尽力しますが、当時軍部の政治進出と対立するものでした。
 大正8年(1919)、第1次世界大戦後のパリ講和会議では首席全権大使を務めますが、これを助けたのは次席全権大使であった牧野伸顕です。帰国後の大正10年、牧野は宮内大臣に就任しますが、これは宮中周辺に力を増しつつあった極端な皇室崇拝者とのバランスを配慮した西園寺の意向であったとされています。

鈴木貫太郎(すずきかんたろう・1867~1948)

鈴木貫太郎の写真
鈴木貫太郎
(国立国会図書館ホームページより転載)

 関宿町(現千葉県野田市)出身の政治家。海軍軍人として日露戦争に従軍、連合艦隊司令長官・軍令部長などを歴任の後、侍従長となります。太平洋戦争最後の首相として昭和20年(1945)4月組閣しますが、日本の無条件降伏により辞職。

 海軍軍人であった鈴木を見出し、昭和天皇に推薦したのは牧野伸顕であったと言われています。

 『牧野伸顕日記』昭和2年(1927)10月20日の項に「海軍大演習後統監の為、聖上陛下午前8時半御出門、御召艦陸奥なり。海軍側より海軍大臣(岡田啓介)・軍令部長(鈴木貫太郎)・同次長(野村吉三郎)御召艦に陪乗、概して海軍の人々は陸軍に比し見聞広く、特に鈴木部長如きは徳望勝れ、東郷元帥老境に入られたる今日に於いては気を強くするものあり」。同24日の項では「今回の大演習中、岡田・鈴木両大将始め海軍首脳に度々接する機会を得たるが、何れも有為、信頼するに足る人々なり。其眼界も決して一局部に止まらず、諸般の事に当り適当判断の出来得る器材なり」。昭和4年1月21日の項には侍従長後任について「鈴木大将約により入来。宮内大臣より交渉に件に付、事情承知致度との事なり。今後君側の忠に此人を得る事となり実に心強く感ぜり。近年宮中の重職の人選として先ず理想的と云うを得べし」と。

 これ以降、終戦を迎えるまで鈴木は吉田茂らと十余二の牧野邸で和平の道を探っていくことになりますが、これは「一億玉砕」「本土決戦」を叫ぶ軍部に対して命をかけた行動でした。

吉田茂(よしだしげる・1878~1967)

吉田茂
吉田茂
(提供:外務省外交史料館)

 東京出身の政治家。外交官としてパリ講和会議に随員、駐英大使などを歴任しましたが軍部からは親米英派として排斥されます。戦後は外務大臣を経て、昭和21年(1946)自由党総裁となり第1次吉田内閣を組閣、その後第5次の組閣まで長期にわたって総理大臣を務めましたが、この間、警察予備隊の設置・サンフランシスコ条約や日米安保条約を締結するなど、日本の戦後史に大きな足跡を残しました。

 吉田茂は牧野伸顕の長女雪子を妻(明治42年(1909)3月10日入籍)としていますが、彼の外交官としての活躍は、岳父牧野伸顕の存在なくしては考えられません。パリ講和会議に随員して政治的・外交的理念にまで深い影響を受け、ともに日米開戦回避、戦争突入後は和平の実現に尽力していくのです。


 

武見太郎(たけみたろう・1904~83)


武見太郎
(提供:日本医師会)

 京都生まれの医師。昭和32年(1957)日本医師会長に就任、以後13期25年にわたって在職、開業医の利益を代弁して当時の厚生省と対立することもあり、「けんか太郎」と言われました。昭和50年(1975)には世界医師会会長にも就任しています。

 昭和16年(1941)秋月英子(父は子爵秋月種英、母は利武子(牧野伸顕の娘))と結婚。吉田茂の閨閥となり、私的なブレーンとして政治にもかかわったとされます。

 武見は昭和12年頃(1937)柏に疎開しますが、その理由についてつぎのように述べています。「…やがて原子爆弾が東京に落ちることを予想せざるをえなかった。東京から自動車、1時間以内で行け、田舎で水の便の良い疎開先を探し、我孫子から関宿の辺に目をつけた。自分の患者であった幸田露伴先生に聞くと、『利根川図誌』を下され、この辺は関東一の絶景で平将門伝説もある。「俺は死ぬ時はこの辺で死にたい。」とまで言われた。私はそこの田中村(現柏市)十余二というところに土地を求めた。これが昭和12年(1937)のことである。……牧野伸顕伯も自宅が焼夷弾でやられると私の家のすぐ隣へ移ってきた。吉田茂さんも陸軍刑務所から出るとすぐ牧野伯のところにあいさつにみえた。……政界の巨頭が往来するようになり、役場でも気を使って砂利を入れたりしてくれた。…… 」 (『武見太郎回想録』)
 

おわりに

 軍部が暴走をはじめ、戦争へと向かうきっかけともなった5.15事件と2.26事件。この 昭和の大事件で、2回とも狙われたのは牧野伸顕だけです。立憲政治が決定的な危機を迎える中で、軍国主義に手を貸さず、同志を募り、和平を求め続けた政治姿勢は現在でも高く評価されています。十余二で静かに息を引き取った牧野伸顕は 、ふるさと柏市ゆかりの稀有な 政治家でした。

 (参考文献)牧野伸顕『牧野伸顕日記』1990.11.10中央公論社、牧野伸顕『牧野伸顕回顧録(上)(下)』1977.11.25中央公論社、塩澤実信『吉田茂』2009.1.10北辰堂出版、工藤美代子『赫奕たる反骨 吉田茂』2010.2.22日本経済新聞出版社、岡田敏男『寒雨と激流の中から』1982.9.30公共事業通信社、武見太郎『戦前 戦中 戦後』1982.3.10講談社、武見太郎『武見太郎回想録』1968.2.15日本経済新聞社、佐藤直助・平田耿二編『世界人名辞典 日本編』1973.11.15東京堂出版

歴史発見「かしわ・その時」シリーズ

 歴史発見「かしわ・その時」は、毎回、その時々に起きた柏市にとって歴史的な出来事を通して市民の皆様方に地域の歴史を紹介していくコーナーです。

歴史発見「かしわ・その時」シリーズ 一覧

タイトル 概要

第一回 

昭和8年7月20日

~柏競馬場駅ができた日~

 柏競馬場は当時、東洋一の威容を誇り、「柏を関東の宝塚に」というまちおこし計画の中核をなす施設で、昭和8年7月20日の競馬場駅の開設はこれを象徴する出来事でした。

第二回 

昭和54年8月14日

~米軍通信所が返還された日~

 日本側に返還された米軍の柏通信所を通して、十余二地区の成り立ちと「柏の葉」開発の歴史を紹介します。

第三回

昭和22年9月15日

~カスリーン台風・水魔が襲来した日~

 猛威を振るったカスリーン台風をテーマに、利根川や手賀沼のほとりに暮らした人々と、水魔との苦闘の歴史を紹介します。

第四回

大正9年10月1日

~第一回国勢調査が実施された日~

 第一回国勢調査をテーマに、このときの調査データや市内の資料を紹介しながら、近代化の中で農村から商都へと劇的に変貌をとげた柏の姿を追います。

第五回

昭和29年11月15日

~柏市が誕生した日~

 町村合併から市制施行をテーマに、当時の懐かしい写真や資料とともに、中核市へと劇的に変貌をとげた柏の原点を紹介します。

第六回

文明10年12月10日

酒井根原の合戦~太田道灌、襲来~

 江戸築城で知られる太田道灌と、下総の千葉孝胤が戦った酒井根原の合戦をテーマとして、数少ない当時の古文書史料を手がかりに、謎に包まれた柏の中世を考えます。

第七回

昭和24年1月25日
軍部が恐れた穏健派~牧野伸顕、十余二に永眠

 今から63年前、激動の大正・昭和期に活躍した政治家牧野伸顕が十余二で死去しました。牧野伸顕邸を中心に、鈴木貫太郎・吉田茂らと繰り広げた知られざる終戦への歴史に迫ります。

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