第六回 かしわ・その時「文明10年12月10日酒井根原の合戦~太田道灌、襲来~」

最終更新日 2012年1月30日

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第六回 かしわ・その時「文明10年12月10日、酒井根原の合戦~太田道灌、襲来~」


太田道灌画像・部分(大慈寺所蔵、伊勢原市指定文化財)
写真提供:伊勢原市教育委員会

  今回の「かしわ・その時」は今から533年前、江戸築城で知られる武蔵国の太田道灌(おおたどうかん・1432-86)と、下総国の千葉孝胤(ちばのりたね・生没年不詳)が酒井根原で戦った文明10年(1478)12月10日としました。

 現在、戦場となった酒井根(さかいね)一帯は住宅地が広がり、その一角には旧日本住宅公団が手がけた日本初の大型団地「光ヶ丘団地」の、モダンな集合住宅が立ち並んでいます。この地が激しい戦いの舞台となったことを偲ぶことはできませんが、わずかに、団地内の公園広場の南東端に、首塚・胴塚と呼ばれる二基の塚が残っています。
 「第六回 かしわ・その時」では「酒井根原の合戦」をテーマに、数少ない当時の古文書史料を手がかりに、謎に包まれた柏の中世に迫ります。

(平成23年12月12日掲載)





 

 決戦 ~酒井根原~ 

国際フォーラムの道灌像
太田道灌像(東京国際フォーラム)
  京都を中心に日本全国を戦乱に巻き込んだ、応仁の乱(1467)がどうやらおさまった翌文明10年12月10日、「酒井根原の合戦」が起こりました。
 アジサイ寺として有名な松戸市の本土寺過去帳に、「 文明一〇年 匝瑳勘解由殿法名妙勘(そうさかげゆどの ほうみょうみょうかん) 高田、於堺根原打死(さかいねはらにおいてうちじに)」とあり、高田の匝瑳勘解由が酒井根原の合戦で討死にしたことを伝えています。匝瑳勘解由 は「殿」付けの記載からもわかるように、本市の高田付近を支配した領主クラスの人物と考えられています。
 京都に室町幕府を開いた足利尊氏(1305-58)は、嫡男義詮(よしあきら・1330-67)に将軍職を継がせる一方、東国の押さえとして鎌倉府長官に次男基氏(もとうじ・1340-67)を任じ、上杉氏を関東管領(かんとうかんれい)として補佐させました。
 基氏は幕府からの権限委譲を受けて次第にその力を強め、「関東の公方様」とか「鎌倉公方(かまくらくぼう)様」といわれるようになります。以後その職は、彼の子孫氏満(うじみつ)ー満兼(みつかね)ー持氏(もちうじ)ー成氏(しげうじ)と代々受け継がれ、補佐役の上杉氏も同様に管領職を固定化していくようになりますが、やがて下克上(げこくじょう)の社会情勢のなかで両者の力は拮抗し、時として激しい対立を繰り返しました。

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臼井城航空写真
臼井城跡航空写真(提供:佐倉市教育委員会)
臼井城縄張り図
臼井城跡縄張り図(提供:佐倉市教育委員会)

 このような中で、足利成氏(しげうじ・1434-97)が、分裂していた山内・扇谷の両上杉家と和睦をはかったことに、下総の千葉孝胤が不満をもち、扇谷上杉家の執事から勢力を伸ばしていた武蔵の太田道灌と衝突したのが「酒井根原の合戦」でした。

 太田道灌は、千葉孝胤を排斥すべく下総国へ侵攻し、太日川(今の江戸川)を渡って国府台(市川市国府台)に陣城をかまえました。これを知った佐倉臼井城主の千葉孝胤は、下総台地に点在する在地武士達を集めて陣を敷き、これに対峙します。

 歴代の鎌倉・古河公方を中心とした関東地方の歴史書・軍記物『鎌倉大草紙(かまくらおおぞうし)』は、「12月10日、孝胤は原二郎・木内を先として境根原に出張ったので、道灌は馳せ向かって合戦をはじめ、終日戦い暮らし、孝胤は打ち負けて木内・原以下ことごとく討ち死にした。」とあります。木内・原のような千葉氏の重臣一族にまで戦死者を出したことからも、この戦いの激しさが偲ばれます。
















 

混乱の時代へ

太田道灌は、翌年文明11年に再び千葉孝胤軍を追って下総台地の奥まで侵攻し、臼井城を攻めますが、今度は逆襲を受け弟太田資忠(すけただ・生年不詳ー1479)が戦死するなど、孝胤を制圧するまでには至りませんでした。
 その後、道灌は馬橋城を築くなど千葉氏に備えますが、柏市域は両勢力の境として混乱の時代を迎えます。増尾幸谷城・柳戸城・布瀬高野館などが市内に築かれたのはこうした理由からと考えられています。

太田道灌状 

太田道灌状
太田道灌状・部分(国学院大学図書館所蔵)

 太田道灌が主君上杉定正(うえすぎさだまさ・1446-1494)の近臣高瀬民部少輔(たかせみんぶのしょう・生没年不詳)に提出した手紙です。酒井根原合戦について、自分は『古河(成氏) 様へ申し成し、自胤(よりたね・千葉)合力のため』及び『都鄙(とひ)御合体』を妨げる孝胤を退治し、『関東御無為の儀』を図るという出陣の理由が述べられています。
 古河公方足利氏と関東管領上杉氏の対立が生んだ関東の戦乱でしたが、やがて和平を図ろうとする機運が生まれます。これに反対した中心人物が千葉孝胤でした。講和が成立(都鄙御合体)すると、千葉介の地位を 自胤 に奪われる可能性があったのです。




 
 

足利成氏感状(かんじょう) 

足利成氏感状
足利成氏感状(安保文書、埼玉県立文書館所蔵)

  「酒井根原合戦」の戦功を賞して足利成氏が安保氏泰(あぼうじやす・生没年不詳)に与えた文書です。

(口訳)去月十日、堺根原(酒井根原)において合戦のとき、粉骨を抽んずるの由、聞こし召し候、始めざる事に候と雖も、忠義の至り、感じ思しめし候、いよいよ忠節を致すべく候 謹言
 正月八日(文明十一年) (足利成氏 花押) 
 阿保中務少輔(氏泰)殿

武蔵の豪族、阿保氏は当時上杉方に属しており、この感状から太田道灌が成氏の支持をえて合戦に臨んだことが読み取れます。

  

文武の名将~太田道灌~

日暮里の太田道灌像
日暮里駅前の太田道灌像

 太田道灌は扇谷上杉家の家宰太田道真(どうしん・1411-1488?)の子で、家宰職を継いで享徳の乱や長尾景春(1447-1514)の乱で活躍した室町時代の武将です。古河公方(こがくぼう)方の有力武将である下総の千葉氏を抑えるため、両勢力の境界である当時の利根川(現江戸川)下流域に城を築く必要があり、江戸城を築城した人物として知られています。有名な「山吹の里」伝説にみられるように歌道にも通じ、室町後期の公卿歌人飛鳥井雅親(あすかいまさちか・1417-1491)などとも交流して様々な和歌を残しています。
 




 

柏に残る道灌ゆかりの地名

 太田道灌ゆかりの地は関東各地にありますが、柏市域にもその名を付けた地名を確認することができます。
 道灌坂・道灌堀・向道灌堀(以上豊四季)、道灌橋(根戸新田)、道灌橋・西道灌橋(松ヶ崎新田)、北道灌橋・西道灌橋・南道灌橋(呼塚新田)などです。ただし、これらは近代に命名された地名とも考えられ、その起源については今後の研究課題となっています。
  

山吹の里伝説

         「七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき」

 鷹狩りの途中でにわか雨にあった道灌は、「急な雨で困っている。蓑を貸してほしい。」とみすぼらしい家にかけこみます。中から現れた少女は、恥ずかしそうにそっと、山吹の花を差し出しました。道灌は「蓑がほしいのに山吹の花では役に立たない。」と怒ります。
 館に帰った道灌がこれを家臣に語ると、「兼明親王(かねあきらしんのう・914-987)が詠んだ古歌があります。その娘は蓑ひとつもない貧しさを、山吹の花に例えたのではないでしょうか。」と。道灌は自らの不勉強を恥じ、歌道に精進するようになったと。
 江戸城を築いた東京の恩人であり、文武に通じた名将太田道灌が生み出した伝説といわれています。

首塚・胴塚

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首塚胴塚の写真1
首塚胴塚の写真
首塚胴塚の写真2
首塚胴塚の写真
首塚胴塚の図面
首塚胴塚の図面



 両軍の衝突は境根原で行われ、野戦を得意とした道灌軍がこれに勝利したので、孝胤軍は臼井城へ退かざるを得ませんでした。道灌はこの時の両軍の戦死者の首や胴体等を集めて葬ったといわれていることから、この塚群のことを首塚・胴塚と呼ぶようになったといわれています。光ヶ丘団地内の公園広場の南東端に、首塚・胴塚と呼ばれる二基の塚が残っています。
 

歴史発見「かしわ・その時」シリーズ

 歴史発見「かしわ・その時」は、毎回、その時々に起きた柏市にとって歴史的な出来事を通して市民の皆様方に地域の歴史を紹介していくコーナーです。

歴史発見「かしわ・その時」シリーズ 一覧

タイトル 概要

第一回 

昭和8年7月20日

~柏競馬場駅ができた日~

 柏競馬場は当時、東洋一の威容を誇り、「柏を関東の宝塚に」というまちおこし計画の中核をなす施設で、昭和8年7月20日の競馬場駅の開設はこれを象徴する出来事でした。

第二回 

昭和54年8月14日

~米軍通信所が返還された日~

 日本側に返還された米軍の柏通信所を通して、十余二地区の成り立ちと「柏の葉」開発の歴史を紹介します。

第三回

昭和22年9月15日

~カスリーン台風・水魔が襲来した日~

 猛威を振るったカスリーン台風をテーマに、利根川や手賀沼のほとりに暮らした人々と、水魔との苦闘の歴史を紹介します。

第四回

大正9年10月1日

~第一回国勢調査が実施された日~

 第一回国勢調査をテーマに、このときの調査データや市内の資料を紹介しながら、近代化の中で農村から商都へと劇的に変貌をとげた柏の姿を追います。

第五回

昭和29年11月15日

~柏市が誕生した日~

 町村合併から市制施行をテーマに、当時の懐かしい写真や資料とともに、中核市へと劇的に変貌をとげた柏の原点を紹介します。

第六回

文明10年12月10日

酒井根原の合戦~太田道灌、襲来~

 江戸築城で知られる太田道灌と、下総の千葉孝胤が戦った酒井根原の合戦をテーマとして、数少ない当時の古文書史料を手がかりに、謎に包まれた柏の中世を考えます。

第七回

昭和24年1月25日

軍部が恐れた穏健派~牧野伸顕、十余二に永眠~

 今から63年前、激動の大正・昭和期に活躍した政治家牧野伸顕が十余二で死去しました。牧野伸顕邸を中心に、鈴木貫太郎・吉田茂らと繰り広げた知られざる終戦への歴史に迫ります。

さらに詳しく知りたいかたは・・・

さらに詳しくお知りになりたいかたは、柏市史などをご利用ください。今回のテーマに関する市史の書籍は次のとおりです。

「文明10年12月10日酒井根原の合戦~太田道灌、襲来~ 」に関する書籍

書籍名

該当ページ

販売

備考

歴史ガイドかしわ

70

販売終了

図書館等で閲覧可能。
(書籍の概要)中学生からの幅広い年齢層を読者対象にした、市全域の案内書・歴史ガイド。

柏市史 原始古代中世 797 5,250円 図書館等で閲覧可能。
(書籍の概要)柏の黎明期から江戸幕府の成立も間近い戦国時代の終わり頃までの市域の様子などを記述したもの。

 柏市史(柏市教育委員会より発行する柏市の歴史に関する書籍)は、柏市立図書館、柏市行政資料室(柏市役所1階)などでご覧いただけます。また、販売中の書籍については、行政資料室(柏市役所1階)、文化課(沼南庁舎)で販売しています。郵送での購入も可能です。
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