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柏の軍事基地

太平洋戦争(第二次世界大戦)終結まで、日本国内には「軍都」「軍郷」と呼ばれる都市・地域が存在していました。海軍鎮守府が置かれた神奈川県横須賀市、明治健軍以来の陸軍の演習地であった千葉県の習志野ケ原一帯(習志野市、船橋市)などがその典型例ですが、現柏市域もまた「軍郷」の一つでした。

市域が「軍郷」となったそもそものきっかけは、大正三年(一九一四)から七年にかけての第一次世界大戦にありました。第一次大戦は、戦車・毒ガス・大型戦艦・航空機など兵器の異常とも言うべき発達をもたらしました。とくに、航空機は大戦中に驥足(きそく)の進歩を遂げ、米・英・仏などの軍事先進国は、大戦中からより高性能の航空機の開発と飛行部隊の創設・組織化を進めるとともに、航空機による攻撃に対処するための防空兵器の開発や防空諸施設の開発・整備を進めました。

日本においても同様でした。はやくも第一次大戦中の大正四年には、埼玉県所沢町に陸軍の航空大隊が開隊され、飛行部隊の組織化が開始されました。昭和期に入ると、「国土防空」特に「帝都防空」の緊要性が説かれるようになり、「帝都」=東京周辺への防空飛行場の設置が議論されるようになりました。

「帝都防空」のための飛行場建設を急ぐ陸軍が目を付けたのが、畑地が大半を占める千葉県の東葛地域でした。昭和一二年(一九三七)六月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定、翌一三年一一月飛行場(柏飛行場)は完成し、同月東京の立川から飛行第五戦隊(戦隊長・近藤兼利大佐)が移転しました。以後、柏飛行場は「帝都」防空の第一線の航空基地となり、第五戦隊の他、第八七・第一・第一八などの飛行戦隊が入れ替わり立ち替わり配置され、太平洋戦争末期には疾風(四式戦)、五式戦などの新鋭機が米軍大型爆撃機B29の邀撃(ようげき)に飛び立ちました。そして、その一部は、振天制空隊としてB29に対する体当たり攻撃を敢行しました。

柏飛行場を語る場合、特筆すべき事項としてロケット推進戦闘機「秋水」の存在があります。秋水は、陸海軍が共同で開発したB29用の戦闘機で、そのモデルはドイツ空軍が開発したロケット戦闘機メッサーシュミットMe163Bです。柏飛行場は、藤ヶ谷(柏市・鎌ヶ谷市)、成増(東京都)、谷田部(茨城県)、厚木(神奈川県)の四飛行場とともに、この秋水の基地に指定されました。昭和二〇年四月、秋水開発のための陸軍の特殊部隊、特兵隊が柏飛行場に進出、秋水配備のための実験・訓練・研究を開始しました。また、田中村の花野井、大室には秋水の燃料貯蔵庫が設けられることになり、陸軍航空本部第一作業隊が工事を開始しました。この工事には、合計二〇〇人以上の朝鮮人労働者が含まれていたとも言われています。


B29邀撃に活躍した2式戦闘機「鍾馗」(昭和19年1月) 佐藤克一郎

防空飛行隊と並んで「帝都防空」のもう一つの主役として期待されたのが、高射砲部隊でした。昭和一二年一〇月、野戦重砲第八連隊を母体として市川市国府台に高射砲第二連隊(東部七七部隊、連隊長・河合潔中佐)が新設されました。同連隊は翌年十一月東葛飾郡富勢村根戸に移動しました。富勢村移動の理由の一つは、「帝都」防空のほか東葛地域の飛行場の防御にあったと考えられます。

高射砲第二連隊は近衛師団に所属し、一高射砲大隊(三中隊)と一照空大隊(二中隊)からなっており、高射砲はフォード・日産・いすゞ等のトラックで牽引しました。根戸の営庭内には頂上がワイヤーで繋がれた四基の鉄塔が配置されましたが、これは標的演習用の模型飛行機を下げるためのものでした。

この高射砲第二連隊は、太平洋戦争勃発直前の昭和十六年に東京に主力が移動し、根戸に残された補充隊も十八年に廃止となりました。第二連隊の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が入りましたが、これらの部隊は二〇年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)と名称を変更しました。

現市域に置かれた部隊は、これらの部隊だけではありません。飛行第五戦隊と高射砲第二連隊の現市域移動に先立ち、昭和一二年一二月には東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊が柏駅付近に開設されました。また、第五戦隊と第二連隊の移動後は、陸軍航空廠立川支廠柏分廠(十余二、一三年一二月移動)や通信・写真・機関など航空機に関する「特業教育」を実施する第四航空教育隊(東部一〇二部隊、高田および十余二、一五年二月移動)など、航空・防空関係を中心に陸軍部隊が次々と現市域に開隊しました。また、昭和一四年四月には、市域内各部隊の傷病兵の入院加療のために柏陸軍病院(病院長・佐々倉操軍医中佐、現市立柏病院)が開院しました。さらに、昭和二〇年六月には風早村藤ヶ谷と鎌ヶ谷村にまたがって陸軍藤ヶ谷飛行場が完成し、夜間専門の第五三戦隊が松戸飛行場から移動しました(本書「下総基地と旧陸軍飛行場」参照)。

ところで、太平洋戦争末期、アメリカ軍は日本本土への上陸侵攻を計画していましたが、日本軍も米軍の上陸を予想し、「本土決戦」の準備を進めていました。日本軍は米軍主力の上陸地点を九十九里海岸と予測し、千葉県に第三六軍・第五二軍という二つの陸軍部隊を配置しました。このうち、第三六軍は当時の日本軍の最強部隊で、第八一・第九三の二つの精鋭師団から構成されていました。このうち、第九三師団が司令部を置いたのが現在の市内光ヶ丘に学舎を設けていた東亜専門学校(現、麗澤大学)でした。この第九三師団司令部の建物は、学校法人廣池学園貴賓室として現在でも使用されています。

(栗田尚弥 『歴史ガイドかしわ』 柏市教育委員会 2007年)

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