小金牧 ~開墾と野付村の生活~

最終更新日 2011年3月1日

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水戸街道を松戸・小金宿を過ぎて北に向かうと、土手に囲まれた木戸に突き当たります。茶店があり、木戸番に頼んでその木戸をくぐると、小金原・上野牧に入ります。旅人を誘う松並木が植えられ、野馬たちには炎天を遮る日陰を提供してくれていました。「下陰をさがして呼ぶや親の馬」と一茶が詠んだのもこの辺りでしょうか。この原は小一時間で柏の木戸(現在の旧水戸街道千葉銀の辺り)を出て再び街道に出ます。水戸街道を旅する誰もが通過する小金原の道でした。

鹿狩絵図の写真
鹿狩絵図 (大久保忠寛家蔵)

小金が原は四〇里野とも呼ばれ、佐倉牧と共に下総台地中央を南北に連なる牧の総称です。高田台牧(十余二)、上野牧(豊四季)、中野牧(初富・五香・六実)、下野牧(二和・三咲)、印西牧(十余一)の五牧があり、約二千頭弱の野生馬が育まれていました。江戸の中期までは野生の鹿も多く、ごくまれにはオオカミも生息していたという記録もあります。二〇〇年前には、この北総の原にオオカミがいたことを想像してみて下さい。他にもイノシシやウサギや、狸や狐などが駆け回る自然があったのです。

牧と周辺の集落は、野馬土手(野馬堀)と谷津で緩やかに仕切られ、水田の用水と野馬の飲み水は共用していました。この様な広大な原野が広がっていたのは、海抜二〇メートルほどの痩せた赤土の北総台地上でした。水が乏しく風の早い原地で(風早という地名も残っている)、森林にもならない不毛の荒れ地が多かったようです。幕府や御三家の鷹場が設定されたためか、江戸からわずか三〇キロ圏とは思えない程、自然に囲まれていたのです。現在の人口急増の旧東葛飾郡の市街地への変貌は、明治維新に始まる小金原開墾以後の事です。

小金原の変貌

かっての小金五牧が現在どのように利用されているか、その変貌ぶりをを見てみましょう。まず気が付く事は、東武野田線・船橋線・新京成線などの私鉄が牧地の真ん中を縦断しています。豊四季団地・常磐平団地・村上団地や、松戸の自衛隊、習志野・下志津自衛隊などは、旧陸軍や海軍などの飛行場跡や軍用地の跡に創られてきました。十余二のトムリンソン基地の跡には国立がんセンターや東大キャンパス、国府台付近の大学用地、習志野の日大、千葉経済大学などの大学も戦後続々と創られました。首都圏の近くに広大な国有地が存在したことは、国策に限りない便宜を与えてきました。それ故この北総台地の急変は、日本の近・現代史の縮図ともなったと言えます。その変化の過程で、国家と地元民との軋轢もまた引き起こされることもありました。 一つの土地がこの様に変貌していく歴史を顧みるのも、また楽しく意義のある事と思います。

「きちかう(桔梗)、おみなへし(女郎花)、かるかや、尾花みだれあひて、さをしか(小牡鹿)のつまこひわたる、いとあはれ也。野の駒、ところえがほにむれありく、またあはれ也」芭蕉が、おそらく木下街道の鎌ヶ谷野辺りで、秋の情景を描いた文章です。(鹿島詣) 時を経て、大正一四年に東葛飾中学の英語教師として赴任した八木重吉も「はらっぱと」いう詩を残しています。

牧の開墾

小金・佐倉牧は、江戸時代には幕府直轄の牧でしたが、日常は地元の有力者を牧士(もくし)に取り立て管理を任せていました。牧士頭の綿貫氏を中心に近隣の村々を「野付村」に指定して夫役負担によって維持していたのです。享保改革期に幕府は、牧の周辺をけずって原地開墾を試みます。代官小宮山杢之進に担当させた開墾は、野付村の牧側に新たに野馬堀を造って、村請けで畑地開墾させました。享保一五年に検地され、高柳村などでは六戸ほど新田に移住する人もありました。しかし野馬は水や日陰を求めて、野馬堀を越えて進入し、畑や林は荒らされ再び牧地に戻さざるを得ませんでした。以後野付村の人々はわずかながら税を払って、下草の刈り取りや薪を取る権利を持ってきました。この享保時代に請け負った農民の土地が、開墾会社に与えられたため、明治の開墾地をめぐる裁判闘争に発展します。

明治維新政府は、いわば西から東上してきた薩長政権でした。戊辰戦争の戦費を三井八郎右衛門など、主に関西の政商に負担させてきた見返りに、幕府が保有していた小金・佐倉牧の払い下げを目論みます。それと同時に東京に集まった旧幕臣などの窮民を至急東京から引き離す方策を企画します。このため明治二年開墾会社を設立させ、開墾と約六千人の窮民の世話をみさせます。しかし小金・佐倉牧跡の原野は手強く、農業に不慣れな東京窮民では開墾は無理な状況にありました。そのため牧周辺の農民の移住するもの、出稼ぎするものの手を借り開墾を進めていきます。開墾村が出来た順番に、初富・二和・三咲・豊四季・五香・六実・七栄・八街・九美上・十倉・十余一・十余二・十余三という新しい村むらが出来ましたが、水不足や強風で建物が全壊したり脱走者も後をたたない有様でした。 明治六年の地租改正にあたり、いち早く開墾会社は地主として地券の交付を受け、東京窮民や出作農民を小作人としていきました。このため開墾民との間に長い開墾地の帰属をめぐる裁判闘争が起こります。特に野付村からの出作人たちは、享保の検地帳の請地を主張しますが、各級裁判は次々に農民側の敗訴に終わります。戊辰戦争の戦費を請け負った政商たちへの払い下げという政治目的があったためと考えられます。今下総台地に残る開墾碑の多くはこの裁判の過程で、農民たちが残した無言の叫びのように思われます。

たとえば柏市十余二の高田原開拓碑には、「当地は元小金原高田台牧也。明治二年より入植開拓せり。初期入植者は自作農たるべき筈の処、大隈及び鍋島などの所有となりて八〇余年、昭和二二年来の農地改革により、初期貫徹すべて入植者の有に帰す。」(厳島神社境内)とあります。戦後の農地改革で、ようやく自分たちの手に開拓地が帰ってきたことを喜んだ碑です。明治末年わずか一二、三万人にすぎなかった旧東葛飾郡内の人口は、今二百万人を超えようとしています。小金牧の跡地の変貌も、この様な歴史を刻んで現在にいたっています。

(中村 勝 『歴史ガイドかしわ』 柏市教育委員会 2007年)

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