更新日令和3(2021)年2月26日

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将門伝説と相馬氏

10世紀半ば、関東地方を震撼させた平将門に関する伝説は、千葉県北部から茨城県にかけて数多く残っています。例えば、柏市岩井には将門を祀る神社が残るだけでなく、将門を裏切った愛妾桔梗御前を疎んで桔梗を植えず、また将門の調伏を祈った成田山には詣でないという風習があります。さらに、中世の柏市を含む旧相馬郡を支配した相馬氏は、将門の子孫であるという伝承は良く知られています。

そのもとになったのが、将門は相馬郡に都を建設したという伝承です。将門の事件を描いた『将門記』には、将門が「下総国の亭南」に「王城」を建設したこと、大井津が京の大津になぞらえられたことが記載されていますが、この大井津が市内の大井と考えられています。そして、それから二世紀ほど経って編さんされた『保元物語』という軍記物には「将門が下総国相馬郡に都を建設し、自ら平親王と名のった」と記述され、「下総国の亭南」がいつのまにか「下総国相馬郡」に変わっています。その間の事情はわかりませんが、さらに14世紀半ばに編さんされた『神皇正統記』や『太平記』にも同じような記述がみられます。

このような相馬郡と将門との関係は、相馬郡を支配した相馬氏と将門との関係に発展していきます。ただし、相馬氏の本家は千葉氏ですから、まず千葉氏と将門との結びつきが誕生します。それが14世紀初頭には成立したとされる『源平闘諍録』で、そこには千葉氏の先祖である平良文が、甥の将門の養子になったと記述されているのです。その後、千葉氏の一族として相馬御厨を支配した相馬氏が誕生し、将門の子孫としての相馬氏という位置づけが完成します。

その一方で、将門の直系の子孫が相馬氏であるという伝承も存在しました。将門が戦死すると、その子孫は逃れて信太郡に移り「信太」氏を名のりますが、その後、相馬郡にもどって相馬氏を名のります。ところが、相馬師国に跡継ぎが無かったため、千葉常胤の二男師常を養子に迎えたというものです。

こうした将門の子孫伝承を強く意識して編さんされたものが、江戸時代初期に成立したと思われる下総相馬氏の「相馬当家系図」です。この系図は、将門の子将国が信太郡に逃れて信太氏を名のり、その後、将国の子文国(信太小太郎)が流浪するものの、その子孫は相馬郡にもどり、相馬氏を名のったというものです。その内容は、中世に生まれた「幸若舞」の一つ『信太』によく似ています。

『信太』は、将門の孫である文国と姉千手姫の貴種流離譚です。そのあらすじは、文国が姉千手姫の嫁いだ小山行重(将門を討った藤原秀郷の子孫)から所領を奪われると、その後は人買い商人に売られ、塩汲みに従事させられるなど諸国を流浪します。しかし、外の浜(陸奥湾)で領主「塩路の領司」の養子となり、さらに多賀国府(宮城県)で国司からその素性が認められると、小山行重を攻め滅ぼし、相馬郡でめでたく栄えたというものです。

人買い商人に売られて塩汲みに従事し、最後は宿敵を討ち滅ぼすストーリーは、「山椒大夫」に極めてよく似ています。「塩」に関する内容が豊富であること、塩汲みの状態から、素性が認められて身分を回復するのが多賀国府であることなどから、おそらく日本海側で伝えられた「山椒大夫」と、関東地方に残された将門の子孫伝承が多賀国府で結びついたと考えられます。そして、これを結びつけた人びととは、日本海側と太平洋側を往来する塩商人であったと思われます。多賀国府(多賀城市)や遠く石川県金沢市に残されている信太小太郎の伝承は、中世に発生した伝承が多少のかたちを変えながらも、それぞれの地域で現在にいたるも語り継がれてきたことを示しています。

中世、下総国相馬郡を支配した相馬氏は、鎌倉時代末期、その一部が陸奥国行方郡(福島県南相馬市)に移住した結果、下総国に残った下総相馬氏と移住した奥州相馬氏に分かれます。奥州相馬氏は、江戸時代を通じて相馬中村藩主として存続しますが、下総相馬氏は豊臣秀吉による小田原攻撃によって打撃を受け、わずかに残った一族は徳川幕府に仕えて旗本となり、さらには小田原藩(大久保家)に仕えるもの、帰農するものなど対応が分かれます。

将門の子孫が相馬氏であるという伝承は、江戸時代の少し前には下総相馬氏に存在していたようです。江戸時代の初め、小田原藩に仕えていた相馬長四郎は、下総相馬氏の惣領家(本家)を受け継いだ政胤が伝えていた「御家伝書」の写しを「総州相馬内荒木村(我孫子市新木)」に住んでいた相馬則胤に要請しました。

元和八年(一六二二)の秋、則胤が書き写した「御家伝書」には、将門が関東地方を占領して相馬郡に都を建てたこと、将門が戦死した後、その子孫は流刑に処せられたが、文国の時に赦されて常陸国に住み、さらに下総国相馬郡に帰ったこと、文国の子孫師国に跡継ぎが無かったため、千葉常胤の二男師常を養子に迎えたことなどが記載されていました。その前半に描かれた文国の流刑とは、おそらく廻国伝承であり、彼の住んだ常陸国とは信太郡の可能性が高いことから、下総相馬氏にあっては、将門の子孫信田氏を介して相馬氏に繋がる系譜ないし伝承が存在したことが考えられます。

また、茨城県美浦村舟子の海源寺には将門の位牌が残っていたらしく、それ以外にも美浦村を中心とする旧信太郡内には将門や信太小太郎に関する多くの伝承が残っています。当時、利根川は東京湾に流れ、現在の利根川筋は手賀沼や印旛沼、そして霞ヶ浦や北浦と一体となって大きな内海(香取内海)を作っていました。こうした内海を往来する人びとが、将門に関する伝承を各地に伝え、ほかの地域の伝承と結びつけ、新たな伝承を作り上げていったものと思われます。

こうして成立した地域の伝承が下総相馬氏に取り込まれ、将門の子孫と称するばかりか、福島県南相馬市や相馬市で行われる相馬野馬追いもまた将門以来の行事と位置づけられていくのです。

高望

良将

将門

将国 文国 (略) 師国 師常
                           

 

 

良文

忠頼

忠常 常将 (略) 常胤

師常

(岡田清一 『歴史ガイドかしわ』 柏市教育委員会 2007年)

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