野馬を呼ぶ丘

最終更新日 2011年3月1日

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野馬を呼ぶ丘の絵

「ホーイ。ホーイ。」

  手賀沼に近い小高い丘の上で、ひとりの若者が、谷津(やつ)をへだてた台地に向かって、野馬を呼んでいました。目の前を、清流が西から東に向かって流れています。川の向こうには台地で、深い雑木林をつくっています。この林は遠く今の松戸、野田あたりまで続き、小金ヶ原と呼ばれていました。小金ヶ原には、鹿や兎、そしてたくさんの野馬がいました。今からおよそ八百年ぐらい前の話です。

「ホーイ。ホーイ。」

  馬が大好きな若者は、きょうも丘の上から野馬をよんでいます。やがて、高田あたりの雑木林から、浅瀬を渡った野馬たちが、二頭、三頭、四頭と、丘のふもとに集まってきました。若者は丘の上のやわらかい草や木の葉を集めてきました。清水のわく泉に連れていっては、水をかけ、なわで背中や腹をこすってやりました。若者の前では、馬たちはみんなおとなしく、首をたれて体をこすりつけていました。

「ホーイ。ホーイ。」

  若者の呼び声を聞いて、小高い丘のふもとに集まる馬たちの中に、一頭のたくましい栗毛の馬がいました。肌の色はあさ黒く、赤茶色のたてがみと尾が美しい馬でした。若者が走ると栗毛も負けじとついてきます。ザンブと若者は大堀川にとびこみました。続いて馬も冷たい水を分けて川を渡ります。しばらく人と馬は水中で遊んでいるようでしたが、やがて、馬は、若者をのせて丘に向かって走り出しました。 

「ホーイ。ホーイ。」

  小高い丘のふもとに集まる馬たち、特にいつも若者とたわむれているたくましい一頭は、近くの根戸の殿さまの目にもとまりました。

「今まで見たこともないよい馬だ。鎌倉殿にさしあげたいので予にわけてほしい。」

殿さまは若者にたのみました。鎌倉殿とは源頼朝のことで、根戸の殿さまもその家臣でした。

「栗毛は小金ヶ原のあばれ馬で、おれの言うことしか聞かねえ。おれが一番かわいがっている馬だ。」

  若者は、なかなか承知しませんでした。

  殿さまは、次の日も、次の日も、また次の日も若者のところに来て、ぜひわけてほしいとたのみました。若者は考えました。

「いつまでも小金ヶ原に置いてやりてえけど、大将軍のお馬になるなら、栗毛の出世のためならしょうがねえ。」

「ホーイ。ホーイ。」

  馬に乗った若者は、小高い丘のまわりを三回まわりました。そしてあの泉の水できれいに馬の体を洗うと鎌倉街道を西南に向かって歩いて行きました。ひとつの大河を渡るともう武蔵野です。栗毛は小金ヶ原の雑木林を振り返って大きくいななきました。

  鎌倉殿はこの馬を池月(いけづき)と名付け、たくさんの馬の中でも一番大切にしておりました。
 源平のいくさが終わって、鎌倉へ帰った池月は、宇治川の合戦一番のりの名馬として、多くの人々にほめたたえられました。

  それから何年かたちました。山野をかけ、大河を渡った馬にも、老いがおとずれてきました。

「池月を生まれ育った小金ヶ原へかえそう。」

  頼朝の言葉で池月は故郷へ帰り、雑木林の中で草や木の芽を食べ、泉の水を飲み平和にくらしました。しかしある年の秋、体の衰えがひどくなり、木々の葉が落ちはじめたころ、静かに息をひきとりました。

  近くの村の人々は、肌の色はあさ黒く、たてがみと尾が美しい馬が倒れているのを見つけました。

「池月だ。」

「鎌倉殿のお馬にちげえねえ。」

  村人は池月を埋め、高く高く土を盛り上げました。

「ホーイ。ホーイ。」

  小高い丘の上から、小金ヶ原の野馬を呼んでいた若者ももう老年になりましたが、相変わらず馬との暮らしを楽しんでいました。しかし、池月は丘のふもとには帰りませんでした。また、池月のような馬には、ついにあうことはなかったということです。

  池月を呼んだ小高い丘を呼塚、池月を埋めた林を高塚というようになりました。今の柏市呼塚、松戸市高塚新田がそれです。
 

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